2024年11月05日( 火 )

小池百合子が三選!都知事選に見る「有権者と政治家、どっちがバカか」~有権者を欺く選挙の手口、この国の選挙はどこへ行くか~(前)

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『週刊現代』元編集長 元木昌彦 氏

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 今年の都知事選(7月7日投開票)は現職の小池百合子が三選をはたした。幾多の公約違反やカイロ大学卒業が虚偽ではないかと元側近に暴露されるという負の材料があったにもかかわらず、小池はほとんど選挙運動をせず、公務を続けながら楽々当選してしまった。今さらだが、都知事選はこの国最大の直接選挙である。都知事選について考えることは、この国の有権者たちの投票意識を読み取ることができるだけではなく、これから先の選挙制度がどういう方向へ向かうのかを知ることにもなるはずである。(文中敬称略)
※本稿は、24年8月末脱稿の『夏期特集号』の転載記事です。

選挙妨害が横行した1963年の都知事選

 都知事選にはこれまでも数々のドラマがあった。私は由緒正しい東京都民だが、私も知らなかった摩訶不思議というか、謎が謎のまま終わってしまったというホラーのような実話が、宮澤暁の「ヤバい選挙」(新潮新書)に書いてあるので紹介しよう。

 それは1963年の東京都知事選で実際に起きた。この年は翌年に東京五輪を控え、自民党が推す東龍太郎が3選を目指し、それを阻止せんと野党が共闘して阪本勝を擁立してきた。泡沫候補も多数立候補してきたがそのなかに、立候補締め切り日直前に橋本勝という人物が東京都選挙管理委員会に現れた。都選管が橋本の立候補資格を審査するべく、橋本の本籍地に問い合わせを行ったところ、「橋本はすでに病院で死んでいる」という回答が返ってきたのだ。 驚いた都選管は、すぐに職員を派遣して調査すると、同地では橋本勝という戸籍はほかに存在しないことが判明し、「戸籍上の橋本勝」の従兄も、都知事選に立候補している人間は、自分の知っている橋本勝ではないと語っていた。しかし、当の橋本は、あくまでも自分が橋本勝であるという主張を崩さなかった。

 都選管は明らかに橋本の戸籍が不明で、現時点では被選挙権がないとして、投票日2日前に、橋下への投票は無効とすると本人に通知した。それにもかかわらず橋本へ投票した有権者は2万人以上いたそうだ。泡沫候補たちの多くに自民党からカネが出ていて、阪本の立会演説会へ来る有権者たちを恫喝したり、阪本が街頭で演説すると軍艦マーチを大音量で流したりした。結果は東が約230万票を集め、阪本に約70万票の差をつけて勝利している。

 しかし、警察が動き出して次々に選挙違反者を洗い出し、ついには自民党の選挙対策本部の事務主任までが逮捕されるという事態になってしまった。この事務主任から資金提供され買収や妨害工作を行っていた肥後亨という人間も逮捕され、自民党の閣僚クラスまで司直の手が伸びるといわれたが、突然、肥後は37歳という若さで拘置所内で死んでしまうのである。橋本の背後にも肥後がいたといわれるが真相はわからないままだったという。

1975、79、91年 都知事選を振り返る

『週刊現代』元編集長 元木昌彦 氏
『週刊現代』元編集長 元木昌彦 氏

    ここで、私が多少関わった都知事選について紹介してみたい。

 75年4月13日、都知事選の投開票当日、私は石原慎太郎の選挙事務所にいた。都知事を2期務めた美濃部亮吉は勇退を宣言し、衆院議員だった石原が名乗りを上げた。すると美濃部は「ファシストに都政は渡せない」と前言を翻して出馬したのである。首都は保守と革新の一騎打ちとなったが、若さと大衆人気を持つ石原が有利だと思われた。しかし、大接戦の末、美濃部が30万票以上の差をつけて勝利したのだった。ひな壇には応援団の黛敏郎、浅利慶太、飯島清たちが並んでいたが、石原は姿を見せなかった。

 79年の都知事選は、私も深く関わったから思い出深い。美濃部が不出馬宣言したが、自民党をはじめ各党の候補者選びは難航した。当時の「新自由クラブ」代表の河野洋平は盟友であったウシオ電機社長の牛尾治朗を立てようと画策し、時の大平正芳首相に内々に会って了解を取り付けた(河野と肝胆相照らす劇団四季の主催者・浅利からその経緯を聞いていた)。だが、自民党内部から、党を割って出て行った人間が推す候補には乗れないという反対が出たのだろう、土壇場で白紙に戻ってしまった。

 そのころ、私が親しくしていた議員に元民社党のホープといわれた麻生良方がいた。スマートな容姿と弁舌の巧みさで大衆人気があり、激戦の東京1区でトップ当選をはたしていた。彼からある日、「都知事選に出たいが、河野に会わせてくれないか」と頼まれた。早速、河野に電話をしたが、「自分には意中の人がいるので」と会ってくれなかった。だが、機を見るに敏な麻生は真っ先に出馬宣言したのである。自民党は公明党が推す鈴木俊一に相乗り。社会党は“太田ラッパ”と大衆人気の高かった元総評議長の太田薫。当初、新聞、テレビで麻生は「泡沫候補」扱いだった。

 しかし、選挙戦が始まると麻生人気が高まっていった。そんな頃、太田陣営から「出馬を辞退してくれないか」という打診があった。もちろん何らかの見返りはするという条件付きだ。麻生は悩んだ。私も相談されたが、「ここで降りたらあなたの政治生命は終わってしまう」と諫めた。私は当時34歳の若造編集者だった。選挙結果は、鈴木が約160万票、太田が約130万票、麻生は約90万票で第3位だった。麻生が出馬を辞退していれば、その票の多くは太田に入ったと思われる。あとから、太田は私のことを恨んでいると伝え聞いた。

 91年の都知事選も記憶に残っている。鈴木の4選を阻止しようと、自民党の“豪腕”小沢一郎が担ぎ出したのが元NHKの人気キャスターだった磯村尚徳である。その「演出」を頼まれたのが劇団四季の浅利だった。気取ったインテリ色を薄めようと、下町の銭湯に闖入し、年寄たちの背中を流すパフォーマンスを報道陣に公開させたのは浅利だった。だが奮闘虚しく磯村は鈴木から80万票以上離されて落選してしまった。

転機となった95年選挙 カリスマになびく有権者

 4選の長きにわたって都知事を務めた鈴木が出馬を辞退した95年の都知事選では、タレントで直木賞作家の青島幸男が出馬した。自民・社会・公明は統一候補として元自治官僚の石原信雄を立てた。だが、世界都市博覧会開催などに反対して、「ちゃぶ台をひっくり返す」を公約に掲げただけで、ほとんど選挙運動などしなかった青島が170万票を獲得して大勝した。同じ時期に行われた大阪府知事選では、元「マンガトリオ」の横山ノックが162万票を獲得してこれも大勝した。

 直接選挙では政策よりも、知名度やカリスマ性がある候補が支持を集める傾向が強いが、この2人や、後の石原慎太郎などはその典型であろう。そこに直接選挙の危うさがある。

 青島は1期で降り、次の石原は4期の長きにわたって務めたが、後半はほとんど週に1,2度しか都庁に来なかった。次の猪瀬直樹と舛添要一はスキャンダルで辞職。96年の都知事選では小池百合子前自民党衆院議員が、同党の制止を振り切って出馬した。政党や組織に頼らない「しがらみのなさ」を前面に打ち出し、増田寛也元総務相やジャーナリストの鳥越俊太郎を大差で破り、初の女性都知事誕生となったのである。

 都政の腐食の構造やボス政治に倦んでいた東京の有権者たちは、女性というだけで、そういうものとは距離を置いてくれるだろうという儚い期待を寄せたのだろうが、それは見事に裏切られる。

 それでも1期目を乗り切り、2期目は新型コロナウイルスが蔓延し、東京五輪を延期すべきだという声が高まるなかでの都知事選だった。公示前、石井妙子による『女帝 小池百合子』(文藝春秋)が発売され、小池のカイロ大学卒業疑惑が報じられた。小池は、はっきりしない卒業証書をテレビで見せて疑惑を打ち消したが、モヤモヤしたものが残ったことは間違いない。それでも有力対抗馬は出なかったため、小池は360万票を獲得して圧勝した。

(つづく)


<プロフィール>
元木昌彦
(もとき・まさひこ)
『週刊現代』元編集長。1945年生まれ。早稲田大学商学部卒。70年に講談社に入社。講談社で『フライデー』『週刊現代』『ウェブ現代』の編集長を歴任。2006年に退社後、市民メディア「オーマイニュース」に編集長・社長として携わるほか、上智大学、明治学院大学などでマスコミ論を講義。日本インターネット報道協会代表理事。主な著書に『編集者の学校』(講談社)、『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)、『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)、『現代の“見えざる手”』(人間の科学新社)、『野垂れ死に ある講談社・雑誌編集者の回想』(現代書館)など。

(後)

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