2024年11月02日( 土 )

30周年を迎え、また超えて(25)ついに立つ(2)

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飛鳥1日クルージング

飛鳥 イメージ    1994年1月、東京経済の「新年会議」の席上で、越智オーナーが驚愕の「飛鳥1日貸し切りクルージング」宣言をした。幹部社員たちは当初、「新年の放談かな?」と関心を示さなかった。ところが、オーナーの話が具体的に進んでいくにつれて、あまりの驚きで「シーン」と静まり返ったのだ。概略は以下の通りである。

 5月の連休明けに「東京晴海から伊豆大島一周の24時間ツアーを実行する」という計画を発表したのである。「1日貸し切りツアーで、延べ500人前後を乗船させる。社員の頭数を引いて、お客さん350人を招待する」と堂々とした様子で述べた。「本当に無料で招待できる力が当社にあるのか」という疑心暗鬼の表情を浮かべた幹部たちもちらほら見受けられた。筆者は胸算用した。「今期は利益がかなり出そうな勢いがある。オーナーとしても、みんなに喜んでいただき、お客さんに還元しようという感謝の念が湧いてきたのであろう」と察知すると共に「費用は1,500万円前後かな」と計算した。どうであれ凡人にはできないことだ。恐るべき決断力には感服する。

40人の割り当て

 2週間して九州支社にお客さんを招待する割り当て数についての通知があった。営業額、貢献度で振り分けられていた。筆者の割り当ては40名となっていた。「よっしゃ!この招待客の選別は戦略的に遂行しよう」と誓った。2週間ほど熟慮して即座に断行した。優先課題として、今から設立する会社に出資する可能性の高い企業をリストアップしたのである。そしてお客さん回りを速やかに開始した。30年前であれば、いかに高収益企業の経営者といえで「豪華客船・飛鳥クルージング」の体験者は稀有であったはずだ。

 「えっ、東経さんが招待してくれるの!こちらは晴海桟橋まで行けばタダで乗船できるのね?後で、高額な広告代の請求書が送られてくるのではないかな。おぉ、怖い、怖い」と真面目な顔で語る。「いやぁ、そんな魂胆はありません。日頃の恩返しの一環として、オーナーが決定したのです。夫婦同伴もOKなのですよ」と迫った。説明にまわった日数は20日間余だっただろうか。2月末位まで時間を要したと思う。50名ほど訪問し、スケジュール調整ができない経営者もおられたが、夫婦同伴の3組を含め、43名を招待することができた。これで自身のノルマは達成できた。もちろん、前回(24)登場した飯塚氏もお招きした。

 クルージング終了後に参加者と交わした「感謝談義」の例を紹介する。夫婦で参加された経営者は5年後の98年前後であっただろうか?「コダマさん!伊豆大島巡りで感動した我ら(夫婦共々)は船旅愛好者になって3回ほどクルージングの旅に出かけた。ありがとう」と感謝された。現在、地元ゼネコンのトップに君臨するオーナー(現在、常勤から外れている)から「あの船上で初めて上村建設社長の上村さんと腹を割って話せた。よき思い出となった」と満足感に浸っていた顔が忘れられない。筆者は会社設立30周年になろうとしているのに「お客様への感謝のためのクルージング招待」を実現できておらず、本当に情けない。越智オーナーは本当に「傑物経営者」であった。

資本金調達に目途

 クルージング終了後、こちらは「8月末で退職する」ことを決断した。「独立する旨とレベルアップできる経済情報会社を立ち上げてみせる」という趣旨で出資のお願い回りを始めたのである。前回も触れたように「他人資本50%:自分資本(夫婦)50%で半々、5,000万円をお互いに出資して資本金1億円の会社にする。出資額は1口、500万円」という骨子案を提示した。成果の結果をまとめると13打数10安打であった。最初に即決してくれると思っていた社長からは断りが入った。こちらも内情がわかっていたから督促はしなかった(ゴルフ場経営で資金が切迫していたのである)。

 資本金調達の「笑いと苦労話」を披露しよう!8月末で退社して、まず事務所探しを始めた。目安はつけていた。警固交番前に当時の舛田住宅が所有していたビルが1年程、空いていた(本社を長浜に移転していた)。舛田社長に「警固のビルを1棟借りたいのです。1カ月50万円払います。権利金は家賃の10カ月分500万円でどうですか」と条件を投げた。先方に異論はない。そこで切り返した。「500万円は当社へ出資してください」と迫った。同社長は3分程、思案していたが、「わかった!コダマさん、長くテナントでいてもらいたい」と握手を求めてきた。こちらも涙ぐむ程にうれしかった。

 それから月日が経ち、96年であっただろうか!舛田住宅に住管機構が査察に入ったという情報が飛び込んできた。徹底的にガサ入れされ、金目のものはすべてもちだされているという。聞くところによると、当社の株も持ち出されたとのこと。「未上場株は金にはならないから現金をもっていけばチェンジしてくれるはずだ」と中尾専務が叫んで500万円を持参して回収に走った。予想通り、相手方も喜び、即座にチェンジしてくれたのである。出資された株の引き取り第一号であった。

 舛田社長の根気・粘り強さには感服する。2008年のリーマン・ショックに便乗して再起をはたした時期もあったのだが、病魔には勝てなかった。

(つづく)

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