2024年11月21日( 木 )

福島原発事故と甲状腺癌(後)「県民健康調査」とUNSCEARレポート

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広嗣まさし

裁判所 イメージ    「311子ども甲状腺がん裁判」では東電が被告となっているが、東電がエネルギー政策を実施する政府と密接に絡んでいること、また福島県が自治体として機能しようにもそこに国家権力が介入して目的を果たせずにいることなどを勘案すると、被告は国であってもよいと思えてくる。それだけに、この裁判は福島という一地域ではなく、全国規模の意味を持つ裁判なのだ。

 この裁判で問題となるのは、1つは福島県が事故後に行った「県民健康調査」である。この調査は、その方法が正確な答えを出すのに不適切だったこと、そして県民の「不安解消」を第一目的とするものだったということで批判されてきた。「事故によって起こる危険などない」ことを示すための調査だったとすれば、事実が歪曲された可能性が十分にある。

 では、県がすべて悪かったのかといえば、県の不十分な対応の背後には国からの外圧があったことを付け加えなくてはならない。東電と県の不手際の背後にある国の政治。そこに真の問題がある。

 ジャーナリストの日野行介氏はその点を追求し、当初はすべての調査結果が県民に公開されるはずだったのに、「どこかからの圧力」でそうならなかったと言っている。「どこかから」とは、もちろん「政府から」であるにちがいない。

 日野氏の『福島原発事故 県民健康管理調査の闇』には、事故後に福島を訪れた国連人権委員会のグローバー氏の興味深い発言が引かれている。「国と県とが原発事故によって拡散した放射性物質に関する情報を公開せず、甲状腺癌を防ぐ安定ヨウ素剤が必要だとの情報を得ても、これを住民に配布しなかったことは極めて遺憾だ」という言葉である。

 これを読むと、子ども甲状腺癌裁判で訴えられるべきは、東電だけでなく、福島県、いやそれ以上に県に圧力をかけた国であるべきだとますます思えてくる。県は原発事故後に起こり得る危険な事態に関する情報をもっていたのに、国の圧力でそれを公開できなかったのだ。

 国がそのような圧力をかけたとすれば、原子力基本法に違反したことになる。同法には「民主・自主・公開」の原則が謳われているのだから。

 前出のグローバー氏は、福島の「県民健康調査」に関して、「調査団に被災者を加えるべきだった」とも述べている。この発言は県の県民への姿勢に関する批判を含んでいるが、これも県だけの問題ではない。背後に国の指導があったことが推測されるからだ。

 独立ネット放送の白石草氏は、こうした国と県の姿勢を「異論封殺」と表現している。「異論封殺」は全体主義国家ならともかく、民主主義の国にあってはならないことだ。戦前戦中に全体主義国家であった日本は、いまだにそこから抜け出せていないのかと心が暗くなる。

 無論、県にも責任はある。予想もしない事故が起きたからとて、行政は県民の安全を考える義務がある。行政が慌てふためいていては、県民はたまったものではない。

 しかし、県民にも責任の一端があったことは指摘しておくべきだ。これを言わないでは、「すべてはお上」という旧式論理に陥ってしまう。

 県民が地震と津波と原発事故でパニックに陥ったことは理解できるが、日頃から国や自治体に無自覚に依存してはいなかったか?自らの命は自分で守らねばならないという基本姿勢に欠けていたのではないだろうか。

 この自助の姿勢の欠如は、福島県にかぎったことではない。日本全国どこにでも見られるものである。福島原発事故から学ぶべきは、まさにこの自覚の欠如であろう。

 311子ども甲状腺がん裁判に話を戻せば、被告である東電は、原発事故による健康被害者に対して一貫して責任逃れの言説を並べてきた。事故の後、県内で甲状腺癌が急増している事実があるのに、それを「過剰診断」の結果とし、事故とは関係ないと主張し続けてきた。

 原告側がこれを受け入れずに「県民健康調査」の不備を指摘すると、今度は国連の科学委員会UNSCEARの報告書を引き合いに出し、自己正当化に努める。これに対して原告側がその報告書自体を問題とし、それを反証するデータを提示しても、一向に受け付けようとしないのだ。

 UNSCEARの報告書に問題があることについては、「甲状腺被ばくの真相を明らかにする会」が見解をまとめている。物理学者の矢ヶ崎克馬氏や放射線医療の西尾正道氏、先に名を挙げた崎山氏も、この報告書が原子力産業の側からの圧力で「公正なものとなっていない」ことを科学的に論証している。

 だが、そうであっても、国や自治体や電力会社は自らの非を簡単に認めようとはしない。このような状況では、粘り強く「権利」を主張すること、そのために確固たる証拠を集めること。それをあきらめずに続けねばならない。

 最終的には私たち1人ひとりの自覚の問題である。これからの日本人は、自分で物事をしっかり判断できる力を養う必要があるのだ。民主主義は、国民1人ひとりの意識によってのみ達成される。

(了)

(中)

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