出会いによって変わる人生、福岡の街で芸術をツールに交流の場創造へ
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劇団エーテル 主宰 中島 淳一
きっかけは『ひょんなこと』から
福岡出身の芸能人は多い。私たちが暮らす福岡という街が、いかに芸事に敏感であるかということの裏返しでもあるが、同時に、芸を見る目も厳しいということである。
「福岡は冷たい都会的な部分を持ち合わせていて、そこが逆に人を強くするのだと思います。東京の知り合いの方も、『福岡で成功すればどこでもやっていける』とおっしゃっていました。ただ、発表の場は少ないと思います。使用料が安くて空間も広い『ぽんプラザ』のような場所がもっとあればいいなとは思います」。
芸術を育み、披露する場として福岡が輝くためのアドバイスをくれるのは、劇作家に画家と、多くの表情を魅せてくれる芸術家・中島淳一氏だ。中島氏は1975~76年の1年間、当時在籍していた西南学院大学の交換留学生制度を利用し、姉妹校である米国ベイラー大学へ留学。在学中、中島氏は非常に厳しい講義中だというのに、ついついノートの隅に落書きをして講義内容を聞き流してしまう。そして講義終了後、教授にバレていた中島氏の落書きは、意外な方向に氏を導いていく。何と中島氏の落書きは担当教授に興味を持たれ、同大学芸術学部のポール・ケンプ教授を紹介されることになったのだ。絵を描き持っていくよう指示された中島氏は、とにかく怒られたくない一心でスケッチブックに50枚の絵を描き、ケンプ教授のもとを訪れる。そして中島氏の絵を観たケンプ教授は、氏に「きみは芸術家だね」と言葉を贈る。この言葉に背中を押された中島氏は在学中に絵画、そして英詩にも興味を抱き、芸術の道を歩み始めることになる。
交換留学生制度の期間を終え、帰国しても中島氏は絵を描き続けた。そしてそんな中島氏を見て友人が勧めたのが、朝日新聞の広告欄に載せられていた「ホテルの一室を5日間貸し切っての無名新人向け作品展示企画」である。そして勧められるままこの企画に応募した中島氏は、見事合格を射止める。さらに展示された絵に興味を持った方の勧めで、何と銀座で個展を開くことに。すると今度は画商の勧めもあり、国際展への作品出展も行うことになった。中島氏が当時29歳の頃の話である。中島氏は「わからないままに、とにかく描いていたという感じです」と、まさに『瞬く間』と呼ぶに相応しい青年期を振り返る。
一期一会をその場限りにしないこと
画家としての活動が軌道に乗ってきた中島氏だったが、一人芝居をされている方との出会いを受け、芝居の世界にも興味を抱くようになる。そこからの中島氏の行動は早かった。交流のあった社長を突然訪ね、劇上演のための資金援助を直談判。話の筋も決まっていないうちから場所まで押さえ、勢いのままに上演までやってのけたのだ。
そうして始まった中島氏の一人芝居も、現在では45作を数える人気舞台だ。絵画に関しても「ARTEC・カンヌ」「パリ・マレ芸術文化褒章」ほか、国際舞台で多くの評価を得ている。直近では第16回バルセロナ国際サロン日本芸術金賞を油彩『roses薔薇F30』で受賞し、同賞の3年連続受賞を果たした。
芸術家として絶え間なく作品を発表し続ける中島氏。そんな中島氏に、福岡に生きる若き芸術家の卵たちにアドバイスをもらった。「一番大事なのは、『表現したいものがあるか』ということ。そして目先のことを考えず、『今』に全力を注ぐこと。とにかく『がむしゃら』に」。
国際的に評価され、自身も国際経験が豊富な中島氏。今では講演会というかたちで、その経験を小学校から大学まで、多くの学び舎で後進たちに伝える活動も行っている。
福岡から全国、そして世界へ、芸術というかたちで情報発信を行う中島氏から、今後も目が離せない。※記事内容は2015年8月31日時点のもの
<INFORMATION>
劇団エーテル
主 宰:中島 淳一
所在地:福岡市西区拾六町2-6-6-302
TEL:092-883-8249
URL:http://junichi-n.jp/<プロフィール>
中島 淳一(なかしま じゅんいち)
1952年、佐賀県唐津市生まれ。米国ベイラー大学へ留学中絵画、英詩に興味を抱き、芸術の道へ。絵画では国際舞台で多くの賞を受賞。また一人芝居も行っており、その上演回数は1,400回を超える。関連キーワード
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