2024年11月26日( 火 )

舛添都知事、金への執着は昔から?地元取材で明らかに

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 「若い頃、金に苦労した経験があるようだね。高校の同級生から聞いたが、川の手前側(舛添要一氏の家のある方)は貧乏の家、川の向こう側は金持ちの家、いつかは川の向こう側に家を持つと周囲に言っていたみたいだ。金への執着はひょっとしたら幼い頃の経験によるものかもしれないね」

 政治資金の私的流用が指摘されている東京都知事の舛添要一氏。生まれ育ったのは北九州市八幡東区(当時八幡市)だ。舛添氏の妻が経営する(株)舛添政治経済研究所の北九州支店は今も八幡東区にある。八幡東区で取材を重ねていくと、舛添氏の人物像が少しずつ見えてきた。冒頭のコメントは地域住民の方のものだ。

舛添政治経済研究所北九州支店<

舛添政治経済研究所北九州支店

 舛添氏は、自身のプロフィールによると庄屋の家系だったという。若松市議会議員選挙に立候補したこともある父の故・彌次郎氏は炭鉱や青果店の経営などを手掛けており、裕福な幼少時代を過ごした。しかし、小学校の頃、父親が病に伏せると経済状態は悪化していった。それにともなって生活も厳しくなっていった。その頃から金への執着が生まれたのではないかと言うのである。「金持ちになりたい」――周囲にはこう漏らしていたという。

 「八幡高校から東大に進んだ原動力は金への執着と、そこからくる反骨心じゃないか。実は以前、北九州市長に、テレビでも有名な舛添氏をという声があがったんだよ。地元の同級生が中心となって説得を試みたが失敗に終わったと聞いている。同級生が説得しようと舛添さんに声を掛けたところ『オレを呼ぶなら数百万円用意しろ』って言われて同級生が激怒しちゃったらしいんだ。何百万だったかは忘れちゃったけど、それで一気に同級生から嫌われちゃったみたいだね。金への執着がすごかったみたいだ」(別の地元住民)

 地元を取材してみると、こうした話が出てくるのである。県立八幡高校で勉学に励み、東京大学へ進学して以来、東京で活動を続けてきた舛添氏。地元とは、一線を引かざるを得ない理由があったということだ。

 舛添氏と北九州が再びつながるのは、母の故・ユキノ氏の介護をしていたとされる時期。舛添氏はユキノ氏の介護を積極的に行ったと自身の著書で語っている。が、これもどうやら地元の印象とは異なっている。

 「舛添さん?年に何回かしか見たことないですね。いらっしゃるときはお一人だったと思います。奥さんは1回も見たことがないですね。介護で足しげく通ったって言われていますが、せいぜい年に数回、顔を見に来ているくらいの感じでした。お母さんのお世話は主に亡くなられた(舛添氏の)お姉さんがしていました。あそこ(舛添政治経済研究所北九州支店)の建物ができた頃(1997年2月)、舛添さんのポスターがたくさん貼られていたんです。それが全部取り払われて。今は貼ってないでしょう? 姉弟仲が悪くなったんでしょうね」(地元住民)

 認知症の母を介護する国際政治学者、というのは、どうやらつくられたイメージのようだ。2000年にユキノ氏が亡くなるまで年に数回、舛添氏は地元で目撃されているが、頻繁に介護しているという印象ではなかったという。

 北九州で生まれ育ち、東京都知事にまで登りつめた舛添氏。今なおマスコミの追及が続くなか、地元では冷ややかな空気さえ感じられた。

【柳 茂嘉】

 

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