失われた古代九州王朝の歴史(11)
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近畿大和王朝が編纂した「日本書紀」にも「古事記」にも、自分たちが建造した物といえない建造物について記されています。行政やマスメディアは、いまだに太宰府政庁(都府楼・都督府)を近畿大和王朝の地方の一出先機関の遺構物であり、あまり価値観のないものであるかのうように報道しています。
これでいいのでしょうか。「都督府」・「太宰府政庁」、これらを取り巻くように存在する「水城」と、北部九州の随所に点在する「神籠石」。太宰府を取り巻く山に築かれた山城、「水城」のに添えられた解説文によると、これも白村江の敗戦(西暦663年)後、1年でつくられたとなっています、はたして本当にそうなのでしょうか、子どもだましの説明としか取れません。
さて、失われた九州王朝の最後に登場するのが、「筑紫の君 磐井」です。この磐井の代に、九州王朝が壊滅の階段を下り始めるのです。
九州王朝は百済からの要請を受け、任那の地、白村江で交戦しまが、大敗し逃げ帰ります。その時、九州王朝磐井の要請を受けた継体の軍は、北部九州に入りますが、その地に留まり、朝鮮半島へは渡らず動かなかったとされています。
朝鮮半島を含む西日本を支配していたのは、磐井の先祖からの九州王朝で、この王朝がもつ利権を妬んだ「継体」が九州王朝を征服しようと、「白村江の戦」で、大敗して帰ってきた「磐井軍」に戦いを挑んだ……というのが本当の事ではないでしょうか。継体の軍勢は、敗走してきた磐井軍を不意打ち攻撃します、この時、八女の岩戸山古墳の石人の首を斬首したと言い伝えられています。
突然反乱を起こしたのは「継体」であり、筑紫の三井郡で交戦し磐井は討ち死に。息子の葛子は、糟屋の屯倉を献上します。
その後も暫らくの間、九州王朝は続きますが、やがて大和王朝の勢力に潰されてしまいます。その時に文献などを焼き、建築物は解体して近畿の正倉院・五重塔などへ移築させ、あたかも今までの北部九州の文化は何も存続しなかったようにします。さらに近畿大和王朝は「日本書紀」「古事記」で、古代より万世一系の天皇が支配してきた、という神話伝説をつくりあげるのです。ここで問題なのが、近畿大和の継体がなぜ九州王朝の命を受けたのか。
徐福渡来まで遡ってみましょう。徐福の船団は多くの地からまた次々と日を替え季節を変わって船出をし、各地に上陸したとあります。その徐福船団の一部が上陸した地が、近畿(和歌山県熊野地方の記述有)だったのでしょう。近畿船団は上陸後徐福本隊を探し、本隊と連絡を付けた。そして分家の立場で居住地をつくり、その歴代の子孫が「継体」と考えるのが、歴史上無理なく説明できることだと思います。(つづく)
【古代九州史家 黒木 善弘】<プロフィール>
黒木 善弘
1947年3月6日生まれ。九信電設(株)代表取締役。
社業は、福岡県警の交通信号分野の指定工事業者として、業界の会長職並びに電気工事業界でも、福岡県・全九州・全日本の役員を歴任し、2008年秋に黄綬褒章を受賞。
一方、社会奉仕活動として、ライオンズクラブに所属し、クラブ会長並びに地区・複合の各役委員を歴任し、現在福岡博多ライオンズクラブに所属する。
敬愛する古代史学者は、古田武彦氏、荒金卓也氏を挙げる。関連記事
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