2024年11月25日( 月 )

【再録】積水ハウスの興亡史(6)

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 「地面師詐欺」の余波を受け、会長と社長が解任動議を突きつけ合う泥沼の抗争劇を繰り広げる積水ハウス。かつてNet-IB NEWSでは、野口孫子氏の手になる同社の興亡を描いた連載記事を掲載した。積水ハウスへの注目が改めて集まっている今、2007年に掲載された記事を再録する(文中の人物、企業の業績などについてはすべて連載当時のもの)。

 親会社、積水化学、子会社、積水ハウスが同じ住宅産業の分野で、競合し、さらに、同じ日窒グループの旭化成も加わって、それぞれが住宅事業の分野で、軌道に乗っているのは稀有な例だろう。プレハブ住宅の着工件数の半分が、現在ではこの日窒グループの3社で占めるまでに至っているのである。
1969年、積水化学の当時の社長小幡氏から田鍋に「技術屋を預かってほしい。建築の勉強をさせたい」と頼まれた。ユニット住宅を開発するという。

 一般のプレハブ住宅は骨組み、壁、床、の部材を工場生産し、現場で組み立てしながら、大工によって部屋を仕上げる工法であったのに対し、部屋ごとにユニット化して現場で組み立て、工期短縮になるということだった。

 田鍋は即答で社員を預かった。積水ハウスの前身と同じように、再び、積水化学の中に住宅事業部を作ったのである。

 積水化学は「セキスイハイム」と名付けて、1971年に、新製品を発表、本格的発売を開始したのである。ハイムも当初は代理店販売であった。積水化学の当時の住宅事業の担当専務が田鍋の積水化学時代の部下だったため、よく相談に来ていた。

 販売は直販がよいと話をしたら、直販に切り替え、プラスチックを売っていた他部門から、多くの人材が住宅部門に投入された。1973年には軌道に乗り始め、今では、積水化学の売上の半分を占める最大の収益部門になっている。

 旭化成はコンクリート系ALC「へーベル」を生産していた。1971年、田鍋の所に、旭化成の役員が「へーベル」を使った住宅を開発して、本格的に売り出したいと相談にやってきた。田鍋は「へーベル」は高いので、東京、大阪の大都会で販売したらどうか。また旭化成は大企業なので、住宅販売のような泥臭い仕事はこなせないだろう。大企業の労働条件では、夜打ち朝掛けのような販売は望めない。販売は別会社にしたほうがいいと助言した。

 結果、旭化成は旭ホームズを設立。今では全国展開し、業績も順調である。この3社に共通しているのは、新しい分野に挑戦するパイオニア精神である。底流には日窒マンの何でもやろうという行動力があるということだろう。それにしても、田鍋の器の大きさを感じさせる一コマであった。グループ、親会社が同じ業種の商品を開発、販売したいと相談に来る。当然シェアの食い合い、競争相手になるにもかかわらず、田鍋は快く相談を受け、アドバイスをしたのである。その先見の明が、今日の住宅業界における3社の繁栄を導いたのである。

 1965年から1980年にかけて、当時の田鍋は「本業に徹せよ」と盛んに言っていた。 1972年、田中内閣の日本列島改造論により、日本中が、総不動産屋といわれるくらい、土地ブームに沸きかえった。土地を買えば、必ず上がり、儲かるということで、日本中、土地の売り買いの情報が行き交っていた。

 積水ハウスにも土地の情報が山のように来ていたが、田鍋は物を生産し、それから利益を出す日本窒素、積水化学と、いわゆるメーカーマンとして歩いてきていたので、何にも生産せず、土地を転がすだけで収益を上げることが許せなかったのだろう。「土地では儲けない」という、経営理念を持っていた。

 一方、他社は土地買いに狂奔していた。田鍋はいつまでも、こんな状況は続かないと読んでいた。やがて第二次石油ショックが起こり、急速に、土地ブームも鎮静化していった。土地買いに狂奔していた会社は借金で買っているのだから、金利負担に耐えられず、損切りしてまでも手放すことが多かった。

 もう1つ、当時、田鍋は住宅(本業)以外を販売することを許さなかった。当時はまだ、ビル、ホテル、店舗、マンション、など特殊な建物を設計、監理、監督できる本格的な技術社員が育っていなかった。経験不足、力不足のため、1つのクレームで命取りになりかねない危惧があった。また、そのような事業物件は基本的には資金の貸付であった。自社ローンか銀行との積水ハウス保証つきの提携ローンの利用を前提としていたのだ。

 事業は成功もあるが、失敗もある。もし、失敗したら、その物件は差し押さえても、事業が継続不可なら、二足三文だ。営業は数字が欲しいから契約したい。田鍋は営業に向かい、「お前はホテルの支配人になれるか?レストランの店長になれるか?」と聞いて、「なれないだろう、だから、やめとけ」と許可はしなかった。

 積水ハウスがリゾートホテル、ゴルフ場建設とか、本業以外一切行わず住宅という本業に徹したことが、長い不況の中、増収増益を続けられた原因と思われる。

(文中敬称略)
【野口 孫子】

 
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