2024年09月01日( 日 )

日馬富士裁判で学ぶ日本の法律(6)

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青沼隆郎の法律講座 第17回

 「加療12日でそこまでの治療が必要だったか。治療が必要だったかの争いになる。金額は高すぎる。」

 医療過誤訴訟でも問題になるが、医療の素人である弁護士に、治療の必要性を議論する能力も資格もない。治療の当否は主治医の専権による。原告を治療した医師の判断によって、その治療内容は決定され、その結果の治療費である。佐藤は、原告の治療は過剰治療、不必要治療であったと主張するが、その根拠は、別の医師による、加害発生時の診断時における傷害程度の一目安にすぎない「予想加療日数」12日である。仮に佐藤が、原告の受けた治療が不要治療、濃密治療であると主張すれば、それは原告に請求された医療費の診療明細について指摘すべきことになる。ただし、日本の医療において、保険診療については、厳格な診療報酬審査があり、これは医師による審査であるから、素人の弁護士による判断より、はるかに専門的である。そのフィルターを通過したうえでの医療機関の請求であるから、不要医療の非難は失当である。弁護士の議論がいかに根拠のない素人発想の議論かを国民は知るべきである。

 なお、清原・佐藤の議論のなかで、法律理論のなかで最も難しいとされている(従って筆者はその分、本質的デタラメ理論と思っている)因果関係論が議論されている。過失責任における予見可能性議論である。素人には極めてわかりにくい議論であるが、何でそんな議論が実用の世界に必要かという視点を忘れずに、「超難問」の因果関係論の「さわり」を説明する。

 「落ち度がある」といって非難するのが、過失責任である。従って、落ち度があるといえるためには行為者にとって、発生した事実が「予見可能」であることが必要である。この予見可能という術語が1人歩きして、因果関係論にまで侵入してきたことによる混乱が本件での清原・佐藤議論における「通常損害」と「特別損害」の議論である。

 被告の責任は過失責任ではなく故意責任である。発生した損害について過失理論の中核である予見可能性の出る幕はない。原告の被害が被告の過失行為によるものである場合なら、通常、予見される損害以上の損害(特別損害)の主張についての立証責任があるが、いずれにせよ、すべての種類の損害について原告には主張・立証責任があるとするのが、民事訴訟の原則であるから、ほぼ、意味のない議論である。特別損害であっても立証されれば、認められるのであるから、通常損害と特別損害の区別の意味はない。ただし、過失行為による損害においては、過失責任の本質的性質、「落ち度」への非難、という意味においてのみ、特別損害、通常損害、つまり、予見可能性、それも当事者の現実の予見可能性(つまり具体的な個人的能力)ではなく、裁判官が考えるところの日本人の平均的知力による予見可能性が裁判規範として議論される。

 以上の議論をわかり易く事例で説明すれば、自動車の運転で損害を与えた場合と、故意に傷害を加えた損害とでは、刑事責任では罪質が異なるが、民事責任では損害賠償であるから立証されれば区別する意味がないということである。
 そうすると、佐藤の主張「そこまで休場するほどのけがを予見できたかどうか。」という日本語の意味がまったく意味不明であることが理解できる。加害者がけがによる休場まで予見して初めて休場による損害の賠償責任があるとの論理であるが、ここまで来れば、佐藤自身にも自分の言っている意味を理解しないで、ただ、法律論らしい議論(つまり詭弁)をしているだけであり、それは、正に、支離滅裂の漫才である。

(了)

<プロフィール>
青沼 隆郎(あおぬま・たかお)

福岡県大牟田市出身。東京大学法学士。長年、医療機関で法務責任者を務め、数多くの医療訴訟を経験。医療関連の法務業務を受託する小六研究所の代表を務める。

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