2024年11月25日( 月 )

中国現地ルポ -広州・杭州・長春・北京-(5) 

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福岡大学名誉教授 大嶋 仁 氏

深圳

 鄧小平が「改革開放」を謳って構築した新都市。それが香港に隣接する深圳である。高速列車に乗れば、広州からわずか30分。駅頭で出迎えてくれたのはXだ。

 この若々しい大学教員は眼をらんらんと輝かせ、いきなり「自分は日本語教員ではない、日本史の教員だ」と言った。元は中国史の専門家。不思議なことに、清朝の歴史を研究しに日本まで行き、京都大学で博士号を取得したのだそうだ。

 彼によれば、日本のほうが清朝の歴史については客観的に見ている。日本の一流学者のもとで学んだほうが、自国の歴史がよくわかるというわけだ。

 日本史に手を染めたのは就職のためだったという。中国では日本語のできる人材が不足しているので、容易に仕事にありつけた。ひとたび教壇に立てば、「てにをは」を教えるのでは満足できない。そこで「日本史を教える」ことにしたという。

 一般に中国の大学での日本学は、日本語学習がその大半を占める。「日本文学」や「日本事情」「日本文化」といった授業もあるが、表面をなでるだけのもののようだ。Xは「中国人にとって日本語を覚えるだけでは不十分。日本史を深く知るべきだ」と思い、日本語を学ぶ学生たちに中国語で日本史を講じているという。

 中国広しといえども、こうした教員は稀である。Xが中国史の専門家であるということが、広い視野をもって日本に臨むことを可能にしているのだ。このような優秀な人材が存分に活躍できるのが、新興都市深圳の強みなのかもしれない。

 深圳は香港と隣接する工業都市だが、その主眼はIT産業である。LINEやWhatsAppの中国版であるWeChatの本拠地もここにあるし、Googleに代わる検索エンジン「百度」(Baidu)の本社もここにある。いうならば、中国のシリコンバレーで、アメリカと衝突している携帯会社ファーウェイも、ここに本拠地を置く。ドローン製造業界では世界で知らない者のいないDJIも、ここに本社がある。

 当然ながら、この都市には全国から優秀な頭脳が集まっている。その共通目標は「技術大国中国」の創成である。市の中心部の高層ビル群を見上げながらXはいう、「この歴史のない町は、現代中国の歴史をつくっているんです」

 氏の案内で大学のキャンパスを見て回ったが、とてつもなく広い。ジャングルのように繁茂する樹林の合間に教室棟や学部棟、事務棟、学生寮、教員宿舎、食堂、レストラン、カフェ、スーパーマーケットなどが配置され、学生たちも移動には構内バスを利用している。「この大学は国立ですが、市からの援助があるんで財政が充実しています。もっとも、我々文系は軽視され、予算は微々たるもので・・」理系重視は、どうやら日本と変わらない。

 氏とともにおいしい海鮮料理を食べながら、天皇について話し合ったことは忘れられない。もうすぐ新天皇が誕生するので、氏としては「天皇とはなにか」をぜひとも学生たちにわかってもらいたいのだという。では、氏の見解はといえば。

 「清朝の皇帝とちがって、日本の天皇は政治の実権をもちません。天皇が政治権力をもった時代は非常に限られており、古代の一時期と、明治維新後の10年間だけです。残りの時期は日本人のアイデンティティーの象徴であるといっても、その存在が国民に意識されるようになったのは明治以降です。国民に敬慕される唯一の存在が天皇であり、政治権力の側にとって、これほど役に立つ制度はないのです。もちろん、こんなことは日本の学者においては常識です。国民にとっての天皇と、為政者にとっての天皇を区別すべきだと彼らはさかんにいうのですが、そこが中国人にはわかりにくいんです」

 「どういう点がわかりにくいんです?」「天皇の神話性が歴史を貫いている点です。どんな民衆も何らかの神話が必要。天皇という神話は日本人には必要。しかし、こういう神話は、中国のように歴史的変動が大きな社会では、すぐに瓦解してしまうんです。中国は、力のある実権者が国家をまとめる必要がある。日本は強権がなくても、神話の力で十分まとまれるんです」

 Xの話を聞いていると、この明晰な頭脳がどこから出てくるのかと驚いてしまう。しかしそれ以上に、氏のこれまでの並々ならぬ苦労に感動してしまった。日本留学の最初の3年は国費留学で順調だった。しかしもっと勉強したいと思い、京都大学の「大先生」に直訴して、博士論文を書き始めたが、奨学金は尽きた。4年間ラーメン屋でバイトしながら頑張ったのだそうだ。

 「京都大学は、学生の主体性をとことん重んじます。私にとってこれが一生の財産です」

 私はこうした若い知性が中国を支えていることに感銘を受けた。清朝から孫文の中国へ、さらに毛沢東、鄧小平と続く激動の百年を、彼は日本史を見ながら考えているのだ。

(つづく)

<プロフィール>
大嶋 仁 (おおしま・ひとし)

 1948年鎌倉市生まれ。日本の比較文学者、福岡大学名誉教授。 75年東京大学文学部倫理学科卒業。80年同大学院比較文学比較文化博士課程単位取得満期退学。静岡大学講師、バルセロナ、リマ、ブエノスアイレス、パリの教壇に立った後、95年福岡大学人文学部教授に就任、2016年に退職し、名誉教授に。

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