続・鹿児島の歴史(8)~流人について1~
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鹿児島は本土最南部、そしてその南方に多くの離島があるため、流人や隠れ人となった人が多くいます。県外人と県内人とに分け、2回にわたって述べます。
まず和気清麻呂について。769年、女帝の寵愛を受けていた道鏡の天皇就任問題に関して、清麻呂は宇佐八幡に出向き、「道鏡を排せよ」という神託を毅然と述べたため、道鏡の怒りを買い大隅配流になりました。翌年赦免されて帰京しますが、「隼人の国」である大隅への配流は重い刑といえます。このような皇室への功績から戦前は10円紙幣にも使われ、流謫の地には和気神社が建てられています。
俊寛について。1177年、平家打倒の鹿ケ谷の密謀が発覚し、平康頼・丹波成経・俊寛僧都らが鬼界ケ島(三島村の硫黄島)に流されました。翌年には中宮出産の大赦があり、康頼と成経は許されますが、俊寛には許し文がありませんでした。俊寛の嘆きを平家物語は、船に取りつき「ただ理をまげてのせ(乗せ)給へ。せめては九国(九州)の地まで」と述べています。なお、鹿児島市の天文館付近(船出の地)には「僧俊寛の碑」があります。明治中頃までは堀があり、俊寛堀と呼ばれていました。
近衛信尹(近衛家17代当主)について。文禄の役の際朝鮮に渡るとして名護屋まで出向いたり懺言もあったりして、1594年勅勘を蒙り、坊津配流(3年間)です。心細い述懐もしていますが、義久の厚遇も受けています。後に関白になり、書道については「寛永の三筆」と称せられました。なお、島津家は近衛家との結びつきが強く、前述した茂姫や篤姫も近衛家養女として将軍家に嫁ぎます。
関ヶ原・豊臣氏関係について。西軍だった宇喜多秀家は、戦後義弘を頼って薩摩に落ち延びました。島津家や前田家(妻が前田利家の娘)の助命懇願により死罪を免れ、後に八丈島流罪です。前田氏の仕送りを受けた島の生活は50年におよびました。
大坂の陣で豊臣方についたキリシタン武将として明石全登がいます。戦後、明石の子小三郎は鹿児島に潜伏していました。1633年、家臣の教徒が発覚し、関係者の供述によって小三郎の城下潜伏が判明し、桜島で捕えられました。かくまった関係者に、19代光久の外祖母の永俊尼がおり藩をあわてさせますが、永俊尼は種子島へ遠島となりました。また、鹿児島市谷山には「伝秀頼の墓」(宝塔)があります。秀頼が薩摩に落ち延びたというものですが、谷山には「谷山の犬(いん)の食い逃げ」という言葉も伝わっています。犬=印で、お金を払う習慣のない豊臣家の印を持つ秀頼といった意味です。ただし、この宝塔は鎌倉時代のもので、豪族谷山氏の供養塔と考えられています。
明治2年に長崎浦上のキリシタン信者4000余名が捕えられ、鹿児島には375名が送られました。「キリシタンぞうり」や製薬方で竜胆丸をつくり比較的好意的に迎えられました。キリスト教が認められた明治5年に戻ります。滞在中58名が病死、13名が生まれ、結局帰ったのは330名です。福昌寺には58名のキリシタン墓があります。
(つづく)
<プロフィール>
麓 純雄(ふもと・すみお)
1957年生。鹿児島大学教育学部卒、兵庫教育大学大学院修士課程社会系コース修了。元公立小学校長。著書に『奄美の歴史入門』(2011)『谷山の歴史入門』(2014)『鹿児島市の歴史入門』(2016 以上、南方新社)。監修・共著に『都道府県別日本の地理データマップ〈第3版〉九州・沖縄地方7』(2017 小峰書店)。ほか「たけしの新世界七不思議大百科 古代文明ミステリー」(テレビ東京 2017.1.13放送)で、谷山の秀頼伝説の解説などに携わる。関連キーワード
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