続々・鹿児島の歴史(4)~鎌倉・南北朝期の大隅~
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1197年惟宗忠久が薩摩・大隅の守護職に任命(後日向も)されますが、1203年比企氏が滅亡すると、一時忠久は失脚します。その後薩摩の守護は北条時政、大隅の守護は1217年以降は北条義時、島津荘惣地頭職も1205年以前は時政の在任が確認されています。
忠久は和田合戦等の働きで、薩摩の守護・惣地頭職には復職しますが、大隅・日向は北条氏のままでした。これには島津荘の在り方が関係します。日向・大隅の島津荘は比較的一円荘(荘園からの収取量が多い)が多く、薩摩は少ない方でした。薩摩は「寄郡」が多く、1国をまとめるうえでも元惣地頭職だった忠久の存在は必要でした。北条氏は比較的利益の多い方を自分の方に残したと考えられます。
このようにして、大隅国守護職と島津荘大隅方惣地頭職は北条氏が継承します。時政・義時以降は、泰時の弟朝時を祖とする名越(なごえ)氏です。複数の守護職を兼務していた名越氏は下向せず、守護代(惣地頭代も)の肥後氏は一族を土着させました。その一系統が後に種子島領主となる種子島氏です。名越氏は国内領主層を守護所構成員として組織化し、大隅国支配をすすめました。その後一時千葉氏が守護ですが、幕末まで北条氏一族が守護であり、守護私領を設定する等、幕府支配は強いものでした。
なお、薩摩国は、承久の乱後、交通の要衝だった薩摩の河辺郡は得宗(執権家)領化しています。また、揖宿郡は地頭島津忠綱(2代忠時の弟)の失政により大隅国守護領です。大隅国守護所が山川湊を外港として利用するためと考えられています。ほかにも交通の要衝で北条氏領の地域もあり、島津氏が圧迫されていたことがわかります。
以上の背景から、5代貞久が足利尊氏に協力し、北朝方となったことは前述しました。
大隅国の南朝方として肝付・野辺氏がいます。これに対応したのが守護貞久と日向で勢力のあった国大将畠山直顕(ただあき 足利氏一門)です。守護と国大将の併置は珍しいですが、直顕派遣は大隅掌握と島津氏への牽制と考えられます。当初、大隅国内では直顕のほうが強力な支配力をもっていましたが、中央で高師直派と足利直義・直冬派の対立があり、結果的に直冬派だった直顕は勢力を失い、6代氏久(奥州家)は大隅国の支配を固めます。南朝方は島津氏に対し、国人一揆を形成させ対抗します(前述)が、参加した大隅の国人としては、馬越氏・曽木氏・税所氏・伊地知氏・蒲生氏等がいました。
熊毛地区について。平安末期に平忠景の乱があり、後継が娘婿の平宣澄ということは前述しましたが、宣澄の協力者として鹿児島郡司の平有平がいました。有平は源氏が強くなると、多禰島に逃亡し、子孫は当地を鎌倉中期まで非合法的に支配しました。その後は前述の種子島氏です。
ここで、入来文書について。入来文書は、薩摩国入来院地頭入来院氏と一族・家臣の家に伝わる文書の総称で、平安後期から江戸初期までの約500年間の入来院の歴史がわかります。入来院氏は鎌倉期に下向した渋谷氏の一族です。この文書を研究したのがアメリカで生活していた朝河貫一博士です。帰国の際、日欧封建制比較研究の上での入来文書の価値に気付き、大正末~昭和初期にかけて、日本文や英文本が日本や欧米で出版され、とくに欧米学会で高く評価されました。その後、マルク=ブロックの『封建社会』やルース=ベネデイクトの『菊と刀』等にも引用されました。
(つづく)
<プロフィール>
麓 純雄(ふもと・すみお)
1957年生。鹿児島大学教育学部卒、兵庫教育大学大学院修士課程社会系コース修了。元公立小学校長。著書に『奄美の歴史入門』(2011)『谷山の歴史入門』(2014)『鹿児島市の歴史入門』(2016 以上、南方新社)。監修・共著に『都道府県別日本の地理データマップ〈第3版〉九州・沖縄地方7』(2017 小峰書店)。ほか「たけしの新世界七不思議大百科 古代文明ミステリー」(テレビ東京 2017.1.13放送)で、谷山の秀頼伝説の解説などに携わる。関連キーワード
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