2024年11月22日( 金 )

【コロナと対峙する企業】キヤノン・御手洗会長が3度目の社長復帰の“奇々怪々”~名経営者の晩節を汚すなかれ!(後)

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 パンデミック(世界的大流行)となった新型コロナウイルスが、政治、経済、文化、生活のあらゆる世界を変えることになる。混迷を深める世界経済のなか、企業はどう乗り切ろうとしているのか。ある老経営者が第一線に復帰するという。これには「エッ!」である。

2代続けて同郷人をキヤノンの社長に起用

 御手洗氏の「地元偏愛」は、大賀兄弟との関係にとどまらない。キヤノンのトップ人事にもおよぶ。米国在住が長かったことが影響しているようだ。

 23年間、米国に駐在していたため、日本に戻ってきたときは「浦島太郎」だった。米国では自らのトップダウンで決したが、日本では「根回し」なしには一歩も進まない。
 新卒入社以来、日本で仕事していれば、先輩・同輩・後輩に人脈ができ、親分・子分の関係が幅をきかすことにもなる。こうしたしがらみがなかったことで、御手洗氏はビジネスライクに経営改革を断行できた。だが、孤高を貫くことは至難の業だ。拠りどころを求める。御手洗氏が、郷土、大分県の人脈を偏愛した理由だ。

 2006年、経団連会長になった御手洗氏はキヤノンの会長に退き、カメラ技術畑出身の副社長・内田恒二氏を社長兼COOに指名した。グループ全体で10万人以上の従業員を抱える大企業キヤノンのトップに抜擢した内田氏は、佐伯鶴城高校の後輩だ。財界活動に専念している間に、実権を奪われないように、同郷で息のかかった内田氏を起用した。

 経団連会長を2期4年務めた後、キヤノン会長兼CEOとして第一線に復帰。リーマン・ショックやタイの洪水被害により、業績が不振だった12年に社長を兼務した。
 16年には、真栄田雅也氏を社長に就けた。祖業のカメラ畑出身で、00年代後半のデジカメの急成長を牽引し、収益事業に育てた。真栄田氏も同郷だ。真栄田氏の出身地、宮崎県延岡市は、県境をはさんで大分県佐伯市の隣町だ。旭化成の企業城下町、延岡市と佐伯市は同じ経済圏である。

 御手洗氏は、同郷人を2代にわたりトップに引き上げことによる。異常というほかはない。「クローニー・キャピタリスト」(縁故資本主義の経営者)と揶揄(やゆ)されるゆえんだ。

 社長時代の栄光は戻ってこなかった。キヤノンの19年12月期連結決算(米国会計基準)の売上高は3兆5,933億円、営業利益は1,746億円だった。売上高は目標とする5兆円に遠くおよばず、営業利益率は4.8%だ。かつて営業利益率15%超を叩き出し「エクセレント・カンパニー」と賞賛されたキヤノンは輝きを失った。

御手洗氏は引退するタイミングを逸した

 キヤノンの”中興の祖”は3代目社長の賀来龍三郎氏。カメラ会社のキヤノンの事業多角化に成功し、国際的な優良企業に押し上げた。賀来氏は、御手洗冨士夫氏に経営を譲って会長からも退いたとき、引退を決断した理由をこう語っている。

 〈(年をとると)最後に残る楽しみが会社だけになってしまう。(私も年をとった)今では御手洗(毅=創立メンバー)前会長が身を引くことができなかった理由がよくわかる。世間一般の企業でも年寄りが辞めない理由がよくわかる。私も、もう後数年たてば自分での引退の決断をできなくなっただろう〉

(「週刊東洋経済」1997年3月15日号)

 御手洗氏は賀来氏のように自ら引退するタイミングを逸した。
 経営トップのもっとも重要な仕事は「後継者選び」といわれている。バトンタッチをうまくするのは、経営者の責務である。だが、引き際は難しい。名誉と権力と金銭的報酬がともなう地位を自ら退くことは、欲望のかたまりである人間には容易ではないからだ。

 ワンマン経営者には、誰も首に鈴をつけることができない。取り巻きは「余人に代え難し。あなたしかいません」と口をそろえる。サラリーマンの性というやつだ。
 多くの優れた実業家が、引き際を誤って、晩節を汚したといわれた。晩節を汚すどころか、若き日の高名をまったく無にしてしまうことがある。御手洗冨士夫氏の社長復帰を疑問とする理由だ。

(了)

【森村 和男】

(前)

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