『007』のジェームズ・ボンド役 ショーン・コネリーが愛したバハマの魅力(1)
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国際政治経済学者 浜田 和幸
映画俳優のショーン・コネリーが90歳の生涯を閉じた。10月31日のことである。世界中の多くのファンがその死を悼んだに違いない。何しろ、アメリカの大衆誌「ピープル」がコネリーのことを「生存するもっともセクシーな男」に選んだのは、彼が59歳の1989年のこと。そのニュースに接し、コネリーが唸った言葉が振るっていた。「セクシーかどうかは死んだ時に決まる」。要は死に際において、あるいは、死に直面したときに、その人物の本当のセクシーさというか魅力が定まるというわけだ。
サーの称号を授与
スコットランドの貧しい家庭に生まれたコネリー。本名は「トーマス・ショーン・コネリー」。父親はゴム製造工場の作業員で週給2ポンド(約3,000円)。母親は臨時の掃除婦だった。コネリー少年は毎朝、小学校に通う前には4時間かけて牛乳配達を続け、家計を支えたという。トイレも4家族共用という狭い宿舎で育ち、シャワーもお風呂もなかった。お風呂屋に行けたのはせいぜい週1回で、家計に6ペンスの余裕があった時だけ。
そのためか、彼は63歳のときに受けたインタビューで、「お風呂に入るのは今でも特別な時だけ」と答えている。当時は映画俳優として功成り名を遂げており、すでに優雅な生活を営んでいたはずだが、幼い時の貧しい生活は忘れられなかったようで、映画スターとして得た破格の収入の多くを故郷スコットランドの若き芸術家を支援する基金に寄付していた。
そんな彼が成功のきっかけをつかんだのは、16歳のときにイギリスの海軍に入隊するも、19歳のときに潰瘍を患い、早期の除隊を余儀なくされたことである。仕方なく棺桶屋で仕事をする傍ら、空いた時間でボディビルに汗を流した。
そして、1953年、ロンドンで開催された「ミスター・ユニバース」コンテストに出場し、入賞したのである。そこで自信を得たコネリー青年はミュージカル「南太平洋」のオーディションを受け、船員役をゲットできたという。その後は紆余曲折を経ながら、役者としての腕を磨き、ついにジェームズ・ボンド役を手にしたのである。その後は伝説的なスターダムをのし上がった。
余談になるが、一世を風靡した「時は流れない。それは積み重なる」のナレーションをバックに、「サントリー・クレスト12年」のテレビCMに登場したときにはスコットランドのウイスキーの宣伝だと勘違いしていたという。何しろ、コネリーのスコットランドへの思いは半端なかった。そこで彼を口説くには「スコットランドのウイスキー」と思い込ませたというサントリーの作戦勝ちだった。
いずれにせよ、社会的常識には反旗を翻してきたのがコネリーであった。世界的に大ヒットを続けた「007シリーズ」は、アメリカのケネディ大統領もホワイトハウス内で鑑賞していたというが、「いつまでも同じような役柄はご免だ」と言って、7作目を最後に、配給会社の依頼をきっぱりと断ってしまった。しかし、結果的には、その後の彼の役柄は多様化し、「アンタッチャブル」ではアカデミー・ベスト助演男優賞を獲得。エリザベス女王からは「サー」の称号を授与されることにもなった。
そんな大スターが就寝中に安らかに息を引き取ったのはバハマの自宅でのこと。スコットランド生まれでスペインやモロッコでも暮らしてきたコネリーであったが、もっともお気に入りの場所がバハマだった。
(つづく)
<プロフィール>
浜田 和幸(はまだ・かずゆき)
国際未来科学研究所主宰。国際政治経済学者。東京外国語大学中国科卒。米ジョージ・ワシントン大学政治学博士。新日本製鐵、米戦略国際問題研究所、米議会調査局などを経て、現職。2010年7月、参議院議員選挙・鳥取選挙区で初当選をはたした。11年6月、自民党を離党し無所属で総務大臣政務官に就任し、震災復興に尽力。外務大臣政務官、東日本大震災復興対策本部員も務めた。最新刊は19年10月に出版された『未来の大国:2030年、世界地図が塗り替わる』(祥伝社新書)。2100年までの未来年表も組み込まれており、大きな話題となっている。関連キーワード
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