日立グループの創業企業の日立金属をなぜ売却?~日立製作所と日立金属のルーツをたどる(2)
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(株)日立製作所は、人々が知っている総合電機の日立ではなくなっている。日立はもはや家電の王様、テレビを製造していないのだ。高度成長時代に「重電の雄」の名声をほしいままにしていたが、重電の象徴といえる火力発電所や海外の原子力発電業からの撤退を決めた。日立グループの原点である、創業企業の日立金属(株)を売却する。その理由とは。
日立金属の創業者は鮎川義介
日立グループの歴史を振り返ってみよう。
日立金属の創業者は鮎川義介氏である。1880年11月6日、山口市に生まれた。1903年、東京帝国大学工科大学機械科を卒業した鮎川氏はエンジニアを目指した。少年時代に、母方の大叔父である維新の元勲、井上馨氏から「これからは技術の時代だ」との薫陶を受けた。井上氏から勧められた三井財閥入りを断り、(株)芝浦製作所(現在の(株)東芝)の現場作業員となった。
当時の最先端だった鋳物技術を習得するため、日露戦争終了後、05年に米国に渡った。鮎川氏は週給5ドルの見習工として、鋳物工場の親方の家に住み込んで働き、溶けた鉄を取鍋に受け、駆け足で鋳型に運んで湯継ぎをしていた。足にやけども負った。
帰国後、日本に鋳物技術を移転しようと考え、10年、井上氏の支援を受け、福岡県遠賀郡戸畑町(現・北九州市戸畑区)に戸畑鋳物(株)(現・日立金属)を創設。社長ではなく専務取締役技師長を名乗った。
「日立」をつくった久原房之助
「日立」を築いたのは、明治、大正、昭和の3つの時代にわたって、政財界で「怪物」の名をほしいままにした久原房之助氏である。久原氏は規模の大きいことが大好きだった。
93年2月19日の朝。日立鉱山の高さ156mの「山の上の高い煙突」は、強風にあおられて下3分の1を残して折れ、工業都市日立のシンボルとして親しまれた「500尺煙突」が、78年2カ月の寿命を全うした。
この煙突を建てたのは、銅と硫化鉄鉱を産出する日立鉱山を営んだ久原氏である。そのころ米国の精錬所には500尺の煙突があり、「思い切って世界一に」と501尺に設計変更したほど。
久原氏は1869年6月4日、明治維新の志士を多数輩出した長州・萩で生まれ、福沢諭吉氏の慶應義塾を出た。1905年、36歳で独立した久原氏は、日立鉱山を買収して久原鉱業所を創業。鉱山事業で大成功を収め、第一次世界大戦での追い風に乗って新興財閥を築く。大正時代、大戦後のバブル崩壊で巨万の富を失ったが、壮大な構想のもとに蒔いた実業の種は、今の多くの企業群として花開いた。
(つづく)
【森村 和男】
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