55年連れ添いの伴侶の死から何を学ぶか(8)経営教訓(2)渉外活動もこなす
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高塚猛氏の来福
1999年3月、福岡ダイエーホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)の球団テコ入れだけでなく、ダイエーのシーサイドももち事業の再生のために高塚猛氏(元福岡ダイエーホークス(株)代表取締役社長・オーナー代行)が盛岡から招聘された。「今さらどうして?高塚の話か」と訝る人たちも多かろう。ここで説明しよう。高塚氏はもともと、リクルートオーナー江副浩正氏の秘蔵子であった。岩手県安比高原でのリゾートビジネスを全国に轟かせた実績をもっている。そこにダイエーオーナー中内㓛氏が盛岡に三顧の礼で3回も口説きに出かけた。
当時、リクルートはダイエーグループの傘下にあった(江副氏がリクルート経営を中内氏に託した経緯がある)。となれば高塚氏はダイエーグループ一企業の経営者という身分になっていたのであった。グループトップのオーナーである中内氏から再々、「福岡への招聘」の働きかけを受ければ誰でも感動する。高塚氏は決断した。彼に対する評価は交錯しているが、少なくとも常勝球団「ダイエーホークス」の基礎を築いた功労者の1人であることは間違いない。
高塚氏から最大の薫陶を受ける
高塚氏の働きぶりがニュースで流れるたびに悦子は、「福岡に縁もゆかりもない高塚さんが睡眠もとらずに企業再建に尽力している。私も微力ながら支援をさせていただく」と興奮して語っていた。珍しいことである。99年6月に高塚氏から夫婦で会食の接待を受けた。当時のシーホークホテル6階で和食の歓待であった。これで悦子は高塚氏の信奉者となったのである。「高塚さんに恩返しをしなければならない」と言い出した。
福岡ドーム内に広告看板を出すことになった。某パンメーカーの隣・両サイドに当社の広告を掲示した。当時の当社の業績はまずまず堅調であった。だから社員旅行としてニューヨーク、ヨーロッパにも繰り出した。あるゴルフ場経営者が漏らしたことがある。「データ・マックスさんの社員旅行が何処かに注目していた。当社も負けないように社員旅行を企画した」というのを聞いて、筆者も逆に感銘を受けたことさえもあった。
2001年夏の安比高原滞在で使命感が高まる
「高塚のビジネスの原点を探る」と銘打って盛岡・安比の視察に延べ4回繰り出した(参加者は毎回約30名)。悦子も必ず同行した。最大の歓待を受けたのは1週間、安比高原滞在したときであった。この間に車で連日、ドライブに出かけた。岩手県三陸海岸の大半を回り廻った。青森県の下北半島まで足をのばした際には、荒涼した景色に接して「ここは日本なのか?」という感動を抱いたものだ。さらに津軽から秋田県境まで駆けめぐり、岩手県東部、青森県一円の関連を頭に叩き込んだ。
1週間の安比滞在により悦子の脳内では地殻変動が起こったようだ。安比高原から北に約30km行ったところにある天台寺(岩手県二戸市)で瀬戸内寂聴氏が1987年から住職をしていることを知り、2人で直行した。このときは寂聴氏が出張中で拝顔できなかった。ただ横に佇んでいた悦子の体には震えが走り顔色が蒼白になっていた。何かひとり言を呟いている感じであった。当時、付き合い始めて約34年経っていたが、こんな光景を目撃したのは初めてである。悦子の心のなかで革命が起きていると直感した。
悦子突然、「女性の友達たちをここに連れてくる!」と大声で叫んだ。こんな覚悟の声を発したのは初めてのことである。2000年当時、悦子は寂聴氏の本をよく読んでおり、彼女の生き様から最も敏感に影響を受けていた。数人の友達と茶飲み話で寂聴氏に関する雑談に興じていた程度であったと思っていたが、「岩手の北端地訪問のツアーを組む」と宣言する強固な意志に燃えた悦子にはまったく驚いたのである。
ツアーを組むのに時間は大してかからなかった。やはり当時の気風として、ある程度の年齢を積み重ねた女性たちが求めていた人生道を寂聴さんが正に語っていたのであろう。「類は友を呼ぶ」というように参加者がそれぞれに友人を誘い、1週間で23名が集まった。01年、悦子は57歳になったばかりであり、ツアーというイベントの中核を担うのも初体験であったろう。出発まで彼女の顔は緊張でこわばっていた。
3泊4日のツアーが終えたあと、福岡空港に迎えに行った。ロビーで解散式に立ち会った。ご婦人方の顔を見ると、いずれも興奮気味で満足した様子である。旅慣れた方が本音でこのように語った。「寂聴さんの講話を聴いて自分のいい加減さを思い知らされた。最高の悟りの旅でした」と。参加者全員が「そうだそうだ」と賛同の声を挙げた。「児玉さん、このたびはこのような企画を立てていただき、本当にありがとうございました」と感謝された。
最後の締めに悦子が発言した。「寂聴さんの生き様の講話を全員で耳にして、お互いに抱える人生の悩み・不安を多少でも解消できたのであれば、今回のツアーがお役に立ったのだと満足しています」と涙を流しながら結んだ。23名の方々もお互い肩を抱き合いながら、ツアーを解散した。57歳で初めてツアーの幹事になった原動力には、高塚氏との邂逅があったのではないか。渉外活動を担うことについて高塚氏から大いに影響を受けたのだと、筆者は考えている。
(つづく)
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