55年連れ添いの伴侶の死から何を学ぶか(9)経営教訓(3)20年超えの厚い壁
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リーマンショックは平気の平左で乗り越えたが
2008~09年のリーマンショックにおいてかなりの顧客が倒産した。リーマンショックにおける金融機関の融資姿勢の違いにより時間遅れで倒産したケースもあったが、当社としては2000~10年の10年間は順調に経営することができていた。10年は会社設立から16年が経過したころで、「そろそろ次の戦略の練り直しが必要」と考えていたときである。悦子も「同じことばかり繰り返しても壁にぶつかる」と、経営陣の一角として賢明な助言を発してくれた。
リーマンショック前は、ドバイなどのアラブ地区が「新時代の拠点」としてクローズアップされていた頃である。08年には社員と付き合いのある有志たちなどとドバイ視察にも行った(社員旅行ではない)。10年は上海万博開催の年だ。上海市労働局から招待を受けて12名で視察に行った。交通費はこちら持ち、ホテル代と現地の交通費は先方持ちであった。悦子も同行した。当時、上海万博を目の当たりにして、「日本はもうこれから中国に引き離されるばかりだな」という思いを強く持ったものである。時は2010年代となり、世界は再び経済拡張傾向の時期となった。
42万部配布、悦子が先頭を立つ
リーマンショックを境に、自民党政権が倒れた。国民に期待されて民主党政権が樹立されたが、短命に終わった。11年3月、東日本大震災が発生した。福島第一原発のメルトダウンによって東京以東が壊滅するのではないかという危機があと一歩のところまで迫っていた。まさしく日本沈没は目前であった。この大震災で、仙台空港に隣接したとある工場を津波が襲っていた。当社はこの衝撃的な津波の動画を入手しNetIB-NEWSで動画を掲載した。すると視聴数が90万件を超えた。この動画視聴数は現在まで依然としてトップである。
福岡に目を転ずると高島市政が誕生した。高島宗一郎氏は幸運な男である。10年11月に福岡市長選が行われるため、6~7月に候補者選びが画策された。当時、自民党は国政で野党であり、自民党推薦で立候補する人は奇特な人と言われた。状況は5転6転したが、当時KBCアナウンサーをしていた高島氏に白羽の矢が立ち、そして選挙に勝った。そこから現在まで高島市政が4期継続している。
14年8月に当社は総力を挙げて42万世帯に自社発行の新聞をポスティングした。2期目を迎えてあまりにも傲慢になった高島市政を問いただすためである。大半の投函は社員たちと取引先の業者とで行った。悦子も先頭を切って戸別投函に尽力した。思えばもう9年間が過ぎた。このときに汗を流して投函した同志の5名が故人になっている。月日の流れは速く儚いものだ。
20年超えのジンクス
時代は虚ろ。20年も経てば人の気持ちもライフスタイルも変わる。筆者に置き換えてみよう。たとえば朝、目を覚ませば新聞に飛びつく習慣があった。2部読まないと気が落ち着かないのである。ところが今や起床して手にとるのはiPhone。動画ニュースを見るためだ。当社にとって14年は創業から20年目にあたる。ビジネスモデルの根幹からの転換を検討する時期に立たされていた。
このころにはユーザーのビジネス形態も激変していた。企業倒産についての情報ニーズが大きく変わり、信用調査依頼が皆無になったといってよかった。このビジネスの売上減をカバーするためにいろいろな商品の開拓をしてきた。これは当社だけのことではない。企業調査業界は帝国データバンクと東京商工リサーチの2強体制となり、同業者は大方、死滅状態であった。
世はネット通販が右肩上がりの時代である。この業界への対応が当社の新しいビジネスモデルの切り札と考えた。しかし、筆者は健康食品と通販の業界に関して何らコネクションをもたない。そこで、この業界で定評のあったTという人物をスカウトしたのが、08年のことである。「第二事業の育成」という認識で先手必勝の手を講じようとした。確かにTは当初、期待に応えてくれた。同事業の年商は7,000万円規模になっていた。だが、健食・通販のビジネス展開の変わりようは凄まじいものであった。
大手の寡占化が急速に進んでいた。当社を含め業界の多くの中小事業者はどこもクライアント離れに対して手の打ちようがなかった。Tが18年5月に退社したころに、この事業も閉じた。会社に一挙に暗雲が漂い始めた。
(つづく)
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