2024年08月16日( 金 )

国とメディアのウソ、そして地方自治体と住民 ─玄海原発を考える(前)

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広嗣 まさし

玄海原発 イメージ    原発は「低コストで安定した量の電力を提供できる」のがメリットといわれる。デメリットはというと、あまり話題にならない。福島第一原発事故のせいで、「言わなくてもわかるだろう」ということか?

 そもそも原発は、事故がなくても周辺地域の住民に目に見えない被害を与え得る。というより、確実に害をおよぼす。放射性物質が外部に漏れ出ないはずがないからだ。

 しかし、公式見解では、「漏れ出たとしても微量で人畜無害」なのである。そう言わなくては稼働できないからだ。そこで働く人々は常に「被曝」の危険にさらされている。少し離れたところに住んでいる人も、健康を害しているに違いない。無論、電力会社、国、また県や市といった自治体は、あえて「そんなことはない」という。これに対して文句をいう人は、ほとんどいない。

 10年ほど前、たまたまカナダで見たテレビ番組に、福島事故後の原発周辺住民の生活についてのドキュメンタリーがあった。見ていて驚いたのは、インタビューを受けた漁民の1人が、海水中の放射性物質のせいで「魚がおかしくなっている」と言っていたことである。このような発言は、日本での報道番組で聞いたことがなかった。

 思い知ったのは、日本のメディアがいかに国家の政策に従順であり、いかに言論を自己規制しているかである。戦前と少しも変わっていないではないか。私の友人で、今は故人となった人が言っていた。「日本のメディアは、戦前の体質をそのままマッカーサーが利用したために、今も昔も同じなんだ」と。

 メディアもメディアなら、自治体も自治体である。本来なら国と住民との仲介役であるのだから、住民の声を吸い上げてそれを国に伝える義務があるのに、それをしていない。上からの指示に「はい、はい」とうなずいて、下々にそれを実行するよう伝えるだけだ。

 そういうシステムに慣れきっているのか、住民の方も黙り続けている。とはいえ例外はあり、たとえば佐賀県唐津市で反原発運動を推進している北川浩一氏がその1人だ。以下、氏がくれた貴重な情報資料を基に、私なりに考えたことを記していく。

 まずいえるのは、「国がウソをついている」ことだ。もう1ついえるのは、当該の自治体に「気力」がないことである。この2つが連動し、それをメディアが後押しする。そうすれば何事も「スムーズ」にゆく。住民は一見してなんの「不安」もなく、「少しも問題がない」かのように暮らす。

 これを見て思い出すのは、ノーベル賞作家アイザック・シンガーの書いた『やぎと少年』である。いとも平和な共同体を描いており、村の全員が長老たちの大ウソを信じているのだ。ユーモラスで可愛らしく感じられる一方、不気味な悲しさも感じた。

 公に伝えられる「ウソ」を信じることは、精神の安定には役に立つ。信じていれば、心が安らぐ。しかし、そうしているうちに心身が蝕まれる。本当に、それでいいのか?

 長崎に原爆が投下された日の朝日新聞の記事も、ウソであった。「新型爆弾投下」と小見出しがあって、そこにやや小さい字で「被害僅少」と添えてある。当時の国情からそう書かざるを得なかったのだろうが、それにしても「被害僅少」は酷すぎる。

 「忖度」とは自己規制のことであり、上からの圧力があるかぎり、いつまでも続くものだ。しかし、いくらなんでも、日本は『やぎと少年』に描かれた村落ではない。政治のウソ、メディアのウソを見抜ける日本人は少なからずいるはずだ。なのに、ウソが出まわると人は口を閉ざす。これは悲劇ではないのか?

 原発に関する国のウソの1つを紹介しておこう。日本には原発を設置する立地条件が備わっていないのに、「備わっていることにしている」というウソである。

 日本は「アメリカ基準」をモデルとして立地条件を定めているというのだが、アメリカ基準を適用すると、実は日本列島にはどこにも条件にかなう場所がない。それでは困るというので、政府機関は日本の地理的条件に合わせてその「基準」を改変しているのだ。日本でいう「安全」は、だから、決して安全ではない。

 元原子力安全委員長・都甲泰正氏の「各国の原子炉立地基準の動向」(1973年)によると、アメリカ基準には「活断層の近くは避ける」というのが真っ先に出てくるという。これを見れば、日本で原発は無理だとわかる。この地震大国は「活断層」だらけだからだ。

 それでも、国と電力会社がウソをつき続け、原子力発電に力を入れ続けている。となると、「金儲けしか考えていないのか?」と言いたくなる。小出裕章氏の『地震列島の原発がこの国を滅ぼす』(産学社、2024)は現代日本人の必読書である。

 政府と役人は何も考えていないかのようだが、その「何も考えていない」を助長させ、全国民に普及させているのが日本のメディアである。メディアの責任は大きい。

(つづく)

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