2024年12月22日( 日 )

【越中国(富山)巡り(3)】富山・岩瀬の一考察~青木レポート

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 かつて北陸地方は「越の国」(高志・古志の国)と呼ばれていた。「越の国」は現在の福井県・石川県・富山県・新潟県あたりまでを指す。飛鳥時代から奈良時代にかけて越前、越中、越後、能登に分けられ、平安時代初期にさらに越前から加賀が分割されたようである。そのため富山県は「越中国」と呼ばれるようになった。この「越中国」巡りについて1つの提案を行う(8月の視察を参考にしてまとめた)。

    前回、能登半島における「北前船効果」についてレポートしたが、富山も十分にその恩恵をこうむってきた。なお、富山港は従来からある富山港と新港とに別れている。

 従来の富山港の展望台見学をするために隣接する駐車場に車を停めたところ、違和感を抱いた。まず、駐車料金を精算するための機械が設置されていない。また、広大な敷地にも関わらず、駐車場所を区切る線もなかったが、「まぁ良いだろう」と思い、腹を括って駐車した。

 「まずは昼食が先決」と食事場所を探し歩いていたところ、驚くべき光景を目にした。その一帯は昔の北前船廻船問屋の集落であったのだ。大きな海運業者の豪邸が立ち並び、米倉庫の跡地も残っている。酒蔵の名残もあった。

 この地区は岩瀬と呼ばれ、町並みは整備されており、ピーク時の人口は2万人だったそうだ。荷揚げされた物流品は一旦、富山城下町などへ運搬されていたらしい。この地区の繁栄は昭和30年代前半まで続いたといわれる。岩瀬は富山地区の「最先端ゾーン」だったのであろう。

岩瀬地区

室町時代から継承

 昼食はイタリアンレストランでとることにした。この店のマスターはイタリアに10年滞在して料理人として腕を磨いていたという。年齢は50歳前後といったところで、話好きな人だった。

 マスターは岩瀬地区のかつての繁栄について語ってくれた。「この岩瀬は日本10大港に選ばれていた。江戸時代からではなく、室町時代から港として栄えてきた。北前船航路が開かれた江戸時代にはさらに栄華が極まっていった」とのことだ。

 この店でみた「三津七湊(さんしんしちそう)」には、次のような説明がされている。

 三津七湊は、室町時代末に成立した日本最古の海洋法規集である『廻船式目』に、日本の十大港湾として記されている三津、七湊の港湾都市の総称。

 三津は伊勢国安濃津(三重県津市)、筑前国博多津(福岡市)、和泉国境津(大阪府堺市)が挙げられている(博多、堺両港はいまでも健在である)。

 七湊は越前国三国湊(福井県坂井市)、加賀国本吉湊(石川県白山市)、能登国輪島湊(石川県輪島市)、越中国岩瀬湊(富山市)、越後国今町港(直江津)(新潟県上越市)、出羽国土崎湊(秋田湊)(秋田市)、陸奥国十三湊(青森県五所川原市)と紹介されている。

日本海側が玄関口

 ここからわかるのは太平洋側には港が皆無であったということ。現代人は「表太平洋側」という意識しか持っていないが、室町時代から江戸時代の物流に関しては日本海側のほうが勢いがあった。「表日本海側」であったのだ。

 まとめとして中世は朝鮮半島や大陸との交易で栄え、日本海交易が発達していた。近世には北前船の寄港地として栄えたが、明治維新後、日本海側の各港は、ほとんどが廃れてしまい今日に至っている。加えて中国明代の歴史書『武備誌』(軍備誌)には博多津、安濃津、薩摩国坊津を日本三津と称している。

船問屋が牽引

 『富山歴史語・万華鏡』の一節を以下に紹介する。岩瀬地区の繁栄ぶりを想像していただきたい。

ふるさと開発研究所編『富山歴史語・万華鏡』308号、2021年より

(つづく)

【青木義彦】

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