ノンフィクション作家 大山眞人 氏
離職率が4割を超す現状ではAI(人工知能)とロボットの導入は必須だろう。生身の人間だけでは完全介護は不可能だ。介護の現場ではすでにAIを駆使したいくつかのツールが活躍している。あと5年も経つと、人間と同じふるまいができる『汎用AI』開発のメドが立つといわれている。また器具・機械では、クレーン式入浴器具、介護用補助機(腰にモーターのついた補助器具)、改良型車椅子など、介護者の動作を補助する器具が開発され、介護の現場でそれなりの効果を上げている。ところで、46年前、私は故郷山形に帰省して母を看た。そこにはAIの影はない。すべてがアナログ。しかし人間くさい温かみがあった。
結婚二日目の妻に「尻を絞れ」と命ずる母
1979年5月14日。倒れた母を看るために帰郷した。正確にいうと、最低限の家財道具を積んだトラックの運転助手席に乗っての帰郷だ。隣には結婚したばかりの妻がいた。翌日、つまり結婚2日目。妻と私は母が入院しているS病院に面会に出かけた。母に妻を紹介。母は大いに喜び、祝福の言葉を口にした。ところが次に出た言葉に驚天動地。妻に対してこういったのである。「ねえ、絞てけろ」。「絞てけろ」とは山形弁で「絞って欲しい」という意味。絞る? どこを? 「けっつ、けっつばよ…」。「けっつ」とは「尻」のこと。尻を絞れ、と命じているのだ。初対面の、それも私の妻に対して言い放ったのだ。
母の難敵は宿便だった。「楽に出せる方法はないのか」、ベッドのなかで母は死に物狂いで考えたのだ。病院で出してくれる「大黄末(だいおうまつ)」も「特製酢」(酢を蜂蜜で割る)も、結局は期待したほどの効果をもたらしてはくれない。「内側(投薬)がだめなら外側だ」とでも考えたのだろうか。結婚直前まで広告代理店に勤めていた妻にとって、「押す」といったらドアノブか印鑑ぐらいだろう。山形にきた翌日、義母の尻を押すことになるとは…。私との結婚を後悔したと思う。
「いきなりおしめカバーを外せ。外すと、お尻をくるり、と横にして、麻痺していない右手で押してほしい部分を指さすのよ」と帰宅した妻は呆れ顔。尾骶骨の蒙古斑のできるあたりを、指がガタガタになるまで押した。すると、あれほど出し渋っていた頑固者がほんの少し顔を出す。すかさず妻がティッシュで拭き取る。これを母の気がすむまで続けさせるのだ。妻は頑固者を「ホロ」と呼んだ。「そのホロがね、なかなか出てこないの」といって笑った。面会に来るたびに「ホロ取り」をやらされた。
病院側も面会人の行為を見て見ぬふりをする。人手が圧倒的に足りないのだから当然と考えていたようだ。それどころか、介護に対する熱量とスキルを見極めているようで、やがてヘルパーがやる仕事の補助員という空気感が生まれる。介護スキルをヘルパーに褒められる。喜ぶ妻。妻が市内に職を得ると面会は私に丸投げされた。物書きというのは、年中時間があり余っていると見做される職業だ。基本的に毎日、それも朝、昼、晩と面会に出かけた。妻から私へのバトンタッチ。すかさずヘルパーが私を指導する。スキルがアップしていく。そのうちおしめの交換などは朝飯前に。こうなるとヘルパーとの距離が一気に縮まる。看護婦(現・看護師)もまた様子をうかがいながら適切なアドバイスをくれる。たとえば「尻押し」も脳梗塞再発の危険性があるので、母の体調不良時にはストップがかかる。毎日病室に顔を出すのだから、病室にいる5人の入院患者とも仲良くなる。
46年前には介護施設は皆無 面会人もヘルパー要員
当時(46年前)山形には特別養護老人ホームが4年前に開設されたばかりだった。認知症という呼び名はなく、すべて「痴呆症(呆け)」と呼ばれた(認知症と呼ばれるようになったのは介護保険法が改正された2005年以降)。当然介護施設は皆無で、正式にショート・ステイがスタートしたのは1986年である。
山形では寝たきり老人を「在宅看護」で看るのが当然という考え方が支配していた。痴呆症の老人を精神病棟に入れるのが当たり前の時代。しかし家族が一時的にもせよ精神病院に入れようとすると、「親を精神病院に入れるとは親不孝者」と陰口をたたかれた。他人の目を避けるため、鍵のかかる部屋に閉じ込める(いわゆる座敷牢)という家族もいた。その寝たきり老人を看るのは、長男の嫁と決められていた。当時の山形は有数の低所得県だったので、共稼ぎの家庭が圧倒的に多かった。義父や義母が寝たきりになると、泣く泣く嫁が仕事を辞めて看病にかかりっきりになった。これを山形では「看たもの貧乏」といった。この貧乏くじを引くのが長男の嫁と決まっていたため、長男に対する嫁不足が深刻さを増した。
脳梗塞を患った母がS病院の老人病棟に入院できたのは幸運だった。「老人病棟」といったが、それは正式な呼称ではない。看護できない途方に暮れた家族の窮状を「入院」というかたちで引き受けたのである。当然のこととして介護専門の職員はいない。看護婦とヘルパーだけだ。人手が極端に足りないのである。見るに見かねて面会人が手助けする。それを病院側が黙認していたのだ。今なら排便からおしめ交換、食事介助まで病院(施設)側が完全に取り仕切る。面会の家族には指一本触れさせることはない。
だが、当時は逆で面会人にも助けを求めた。厳密にいえば衛生的、医学的な面で問題はあるのだろうが病院側はそれを無視した。患者の家族や面会人に手助けを求めた。そこに入院患者と面会人、病院関係者(看護婦、ヘルパー、事務員)との間に奇妙な連帯意識が芽生えた。
6人部屋の中年アイドル「ヒゲの旦那さん」
1日3回病院に通うことになると、母に対する単なる面会人がやがて6人部屋のアイドルとなる。34歳のアイドル。アイドル名は「ヒゲの旦那さん」だ。やがて部屋の様子、とりわけそれぞれの入院患者の性格から、家族の様子まで浮き彫りにされる。そこにさまざまな「事件」が起きた。これが面白かった。
たとえば通称「ハナ婆ちゃん」。78歳。痴呆症の彼女はいきなり50年も若返る。「子どもら、ママ(ご飯)食(か)しぇねど、学校さ遅刻してすまう」と炊飯用の釜を部屋中探し回る。しばらくすると、「こごさ寝しぇっだ赤ん坊、どこさやった? おまえ、どこさが隠くしたのだべ」と看護婦を睨む。「乳(つづ)飲ましぇらんなねがら早く連(ちぇ)で来い」。今度は自分が生んだ赤ん坊がいないのはおかしい、といいはる。心得ている看護婦は人形を持参。喜ぶハナ婆ちゃん。乳房を出して授乳する。が、人形は乳を飲まない。「このんぼこ(子ども)さっぱり飲まね。身体悪いんでない?」「さっき新生児室でたっぷりミルク飲んだもの、お腹いっぱいだと思う」。突然ハナ婆ちゃん人形のパンツをずり下げた。「ほら、濡っでない。やっぱり病気だ」と喚く。「それにしても上品な子でよかったね」と私が助け舟を出す。すかさずハナ婆ちゃん。「あだりまえだべ、このんぼこ、東京からきたんだもの」「…………」。
一流の音大を出たと自称する「サンキューさん」(サンキューを連発するので)は、大学出の私をことのほか丁寧に接する。手伝ってやると、「サンキュー・サー」と「サー」をつける。隣の病室に早大出を自慢する男性患者がいた。「よう、後輩、元気かね」といいながら私のところに顔を見せる。サンキューさんはこの男が大嫌いだ。大学出が3人もいることが許せないのだ。「母校早稲田」を連発する彼を露骨に避けた。やがて私の取り合いに発展。「ニセ学生、ニセ角帽」「音痴の音楽教師」と言い争いになる。高学歴や現役時代に要職にあった人ほど扱いにくいと看護婦もヘルパーも話す。
昔の栄光とプライドだけで生きている人にとって、現状とのギャップが病状を悪化させることが多いと話す。他にも「丼に盛った黒団子事件」(自分の排泄物が他人の丼に…)、「謎の祈祷師事件」(祈祷師と称する患者が病室を回り祈祷する)など、考えられない「事件」が多発した。狭い病室での事件は、よく見ると世間の縮図のような気がした。
最後に出色の話を1つ。東北の冬は寒く、当然病室の窓は閉じられる。ある冬の朝、母と同室の愛称「ぬらり姫」ことシゲ婆さんから窓を開けるよう懇願された。理由を聞くと、「天皇陛下は私の亭主になる男だったんだ。それを皇后が横取りしたんだ。窓開けでおがねど、天皇陛下雲さ乗って入ってこれないべ」「天皇陛下が逢いに来るの」「んだ、あの人も私さ逢いたがっているんだ。可哀そうな人なんだ」といって嬉しそうな顔をした。母を含めた6人の身勝手な人間模様は実にユニークで飽きることがなかった。
面会は百の薬よりも効くというが…
「面会は百の薬よりも効く」というのが院長の口癖だった。介護施設が皆無の当時、手のかかる「寝たきり老人」(主に嫁ぎ先の義父母)を「入院」という世間の納得を得られる形(手段)でS病院に「隔離」した家族も多くあった。当然ながら面会には来ない。何かと理由をつけては拒絶する。S病院では「病院洗濯」「自宅洗濯」が選べた。面会に来ない家族には「自宅洗濯」を強要した。こうすることで面会する機会を増やし、入院患者とのコミュニケーションを図るという目論見があった。しかしそれでも面会に来ない家族があった。
S病院は常に満床である。帰宅できるまでに回復した患者には退院を促すが、家族がそれを拒否する。直接の原因は、家族構成の変化にあった。子どもが成長するとかつて患者(義父母)が使っていた部屋は子どもたちの部屋となる。義父母の帰る場所がない。自分が建てた家に帰ることができない。離れをつくる費用も気持ちもない。できたばかりの特養は常に満杯で、「東大に入るより難しい」(「A荘」責任者)時代。仕方なく病院をたらい回しにする。何より患者(義父母)のいない生活に慣れた家族にとって、義父母はすでに「他人」なのだ。
こんな家族もいたと看護婦のWさんから聞いた。この老人病棟にやっとのことで入院できた家族が、ベッドに横になり血圧や体温を計っている90歳になる父親の耳元で、こうつぶやいたのだ。「爺ちゃん、え(良)がったなあ、こんないい病院で。爺ちゃんの死ぬ場所はこごなんだからなあ。もう家さ帰らんないんだからな」という声を耳にして唖然としたという。老人病棟は「姥捨て山」と考える人が当時もいた。
一日を大切にする患者たち
私が毎日S病院に面会に通った内容をメモ風に日記として残した。それを基に上梓したのが『S病院老人病棟の仲間たち』(文藝春秋社、1988年)である。私の著書にしては良く売れ、3カ月で三刷を記録している。後に日本テレビでドラマ化(同名のタイトル 主演:佐野史郎、若村麻由美)された。拙著の「あとがき」にこう記している。
「昭和59年8月21日に母は亡くなり、心の整理がついた。『死を考えることは、いかに生きるかを考えることだ』と最近よくいわれる。しかし、こと『寝たきり老人』に関しては必ずしも的を射た表現ではない。あえていうなら、『寝たきりとしての第二の人生をどう生きていくか』というべきだと思う。それほど寝たきりの生活は、健康体のころの生活とは異なった生き方を強いられる。老人病棟というのは『金太郎飴』だとS病院へ通うたびに思った。
金太郎飴のどこを切っても同じ顔が出てくるように、S病院老人病棟の毎日にはほとんど変化がない。『一日』という時間のみを最も大切にする“仲間たち”は、だから常に、一日のうちの“何時の顔”しか持ちえない。しかし、一見無表情に見える“仲間たち”の表情は、よく見ると実にこまやかなことがわかる。老人病棟という名称は、どこか“姥捨て山”に似た『暗さ』を秘めたイメージを与えがちだが、どっこい、彼女(彼)たちはしたたかな明るさをもきちっと持ち合わせて生きているのだ」。
あれから46年。多くの介護施設がオープンし、入所者で溢れかえる。確かに長寿社会にあって、施設の利用はありがたいことではある。ただ介護職員の仕事は辛く収入も低い。早晩、AIを内蔵したロボットが介護現場に導入され、人手不足で悩む業界の助けになると思われるが、AIもロボットも所詮人間ではない。人間がもつ「こころ」や「あたたかみ」は期待できない。「両親を介護した」と自信をもっていえる私にとって、すべてがアナログ的に「動き」「考える」46年前の時代が正直懐かしい。いい時代を送らせてもらったと思う。
<PROFILE>
大山眞人(おおやま・ まひと)
1944年山形市生まれ。早大卒。出版社勤務の後、ノンフィクション作家。主な著作に、『S病院老人病棟の仲間たち』『取締役宝くじ部長』(文藝春秋)『老いてこそ2人で生きたい』『夢のある「終の棲家」をつくりたい』(大和書房)『退学者ゼロ高校 須郷昌徳の「これが教育たい!」』(河出書房新社)『克って勝つー田村亮子を育てた男』(自由現代社)『取締役総務部長 奈良坂龍平』(讀賣新聞社)『悪徳商法』(文春新書)『団地が死んでいく』(平凡社新書)『騙されたがる人たち』(講談社)『親を棄てる子どもたち 新しい「姥捨山」のかたちを求めて』『「陸軍分列行進曲」とふたつの「君が代」』『瞽女の世界を旅する』(平凡社新書)など。