「一斉授業」。先生たちが皆、気づいているのに止められないものの1つだ。昔であれば「できない子」「普通の子」「できる子」のうち、「普通の子」に向けて「一斉授業」していれば7割がたの生徒に通用した。だが、時代はすっかり変化したにもかかわらず、知識を一方的に伝達するそのスタイルから抜けられない。自治体の教育方針や各校の教育目標には「児童生徒1人ひとりに応じた学習活動」や「個性を伸ばす」「多様性の重視」などといった、個を尊重するきれいごとのオンパレードが並ぶ。なのに、その手段は相変わらず一斉授業―それらを実践できる環境にない。
学校の原点
学校教育は、戦後一貫して「平準化」を目指してきた。産業革命によって生産手段が発達し、都市には工場ができ、農村部から人が大量に流入。工場にはそこで働く、読み・書き・そろばんができる労働者が大量に必要となった。その知識を授ける場所として学校教育は生まれ、普及した。資本家が経済活動を維持するため、資本主義のシステムに教育が組み込まれたということでもある。資本家が求めるのは、おとなしく従順でよく働く労働者。だから学校は思想をチェックしたり、校則を厳しくしたりして、先生の言うことを聞くお利巧な生徒(将来の労働者)を生産するシステムを続けた。
労働力を結集させて工場を稼働させた
富岡製糸場公式HP
会社に入れば終身雇用で、失業する心配はない。給料は年功序列なので、毎年上がっていく。ボーナスももらえ、何の疑問も抱かず、会社のために汗水たらして働く人間になることが、将来の幸せに直結していた。つまり、勤勉な労働力を生み出す学校システムは、国や社会、企業にとっても、生徒や保護者、先生たちにとってもWin-Winの非常に優れた装置だったのだ。
日本の戦後復興は、学校を復興することから始まった。新しい技術や機器はまず、学校に導入されることになる。旋盤や電動ドリル、映写機や顕微鏡、天体望遠鏡も、家庭よりまず学校に設置された。最新設備を有する学校は、常に地域社会の、保護者の、そして児童生徒の憧れを集める集光装置だった。
やがて70年代には、9割の国民に「自分は中流以上だ」と信じさせることができた。中流意識が宿った日本人は、「一億総中流」という言葉に象徴された。しかし、その中流層の全員が上流にはなれない。90年代のバブル崩壊を挟んでこの中流層が上下、前後、左右に分解していく。いつからか、顕微鏡も天体望遠鏡もパソコンも通常の家庭に実装され、学校で5年に一度しか更新されないパソコンは、家庭に入る最新のパソコンよりもバージョンが古く、性能が低いものになってしまった。
かつて、工場や軍隊で働く均質で質の高い労働者や兵隊が大量に必要だった時代、日本の近代化と強兵のために明治政府がつくり上げたシステムが、今の教育の原型。しかし、今の10代が社会の中核となる2050年には、日本の社会に閉じこもっていては生きていけなくなるような、さらに厳しい社会が待っている。なのに、日本の学校は昔のままで何も変わっていない。いまだに先生の言うことをよく聞いて、変な校則にも疑問をもたず、学ぶことの意味など考えずに、ひたすら勉強する。そんな生徒が優等生と呼ばれる教育が続いている。そのような学校の体質に失望し、子どもを学校から遠ざける保護者もなかにはいるようだ。
公教育は主体性を奪うか
日本の学校教育の問題は、幼児教育までさかのぼる。母親が子どもを朝起こすところから、子どもの主体性を失わせている。人間は生まれたころは、好奇心の塊だったはずだ。いろいろなものに興味をもって主体的に行動していたはずが、日本の場合、小学校の高学年くらいになると、その主体性が消えている。「あれをやれ」「これをやれ」「あれをするな」「これをするな」ばかりで、子どもたちは何かをすることに憶病になって、「先生どうすればいいの?」「お母さん次は何すればいい?」と質問するようになる。与えられ続けた人間は、与え方が悪いと今度は不平不満をこぼし始める。
主体的な営みを放棄することは、奴隷化するということ。何の疑いもなくインターネットやAIにすべて委ねきっているのだとしたら、あなたの主体性も限りなく弱っている。“情報の奴隷”といえるだろう。教育の2大目標は、「主体性」と「当事者意識」を育てるところにある。
ここでいう主体性とは、子どもが自分自身の力で歩いて行ける力をもつこと。翻って「自主性」とは、先生のやってほしいこと、親のやってほしいことを忖度して進んでやることを指す。大人はこんな子どもが大好きだ。巷ではこれを「自主性」といい、優等生と言ってもてはやす。「主体性」とは違う。本当は「なぜですか?」「嫌です」「これは〇〇な理由で△△だと思います」と言えるような子を育てなければならないのに、ことごとくそんな反抗勢力を潰してきた。静かに言うことを聞いてくれたほうが、授業の進行もスムーズだし、大人は「お利巧さんだね」といって、優等生を量産する。それが、管理者としての自分の評価にもつながるからだ。
日本の学校はいまだに、自己主張や主体性がなく従順で均質化した、平均的な能力を持つ人材を育てようとしている。しかし、世界が求めるのは主体的で、自由でクリティカルシンキングができ、多様性があり、それを受け入れられるオープンマインドをもつ人材。世界の学校は、そのような人材を育てようとしている。
1つのことについて「主体的にやると面白い!」ということを知っていると、別のものについても、自分でやると決めて実行することを繰り返す。誰かとぶつかっても対話ができ、合意ができるという能力を身につけさせる。失敗も含め、自分の力で起き上がる、1人ひとりが自分の力で歩いていけるように、その子の力を最大限引き出してあげる。学校はそのためにある。教育の本筋は、主体性と当事者性を育てることであるという教育の目的が、国全体で共有化されなければならない。主体性がこの時代ほど重要性を増している時期はないだろう。
我々大人はもしかすると、子どもにあれやこれやと与えすぎてしまってはいないだろうか。親が、兄弟が、祖父母が、友人が…。あっという間に子どもの周りには、モノや情報や言葉があふれる。好奇心に触れる総量が多すぎて、子どもは1つのものに深く没入できない。街にひとたび出れば、刺激的な情報と機会があふれている。考えようとしても、その前に管理の手がおよんでくる。善悪の指示の前に、有用な失敗もできない。現代化してしまったゆえに失う根源的な探求に向き合えないということであれば、あまりにも悲劇的な末路だ。子どもに触れるものの選別は、親を含め、周囲の人間が考えて準備すべきだ。決して多ければいいというものではない。
相性が悪い受験と好奇心
義務でやらされることと「好奇心」は、とても相性が悪い。親が「子どものために良い学校に入れさせたい」と思い、子どもたちも将来のために「あの学校、あの大学に入りたい」と思うのは当然のことだろう。しかし、その根底には「あの学校に入れば大丈夫」「あの会社に入れば大丈夫」という思いがあるのではないだろうか。有名な大学に合格したり、有名大学に合格者を数多く出している中学や高校に入学したり、予備校や進学塾のカリスマ教師を信じて勉強していれば、明るい未来が開けると、勘違いしていないだろうか。日本の教育が悪くなったのは、そういった人任せの「お客さま意識」が蔓延しているからではないか。
学力とは、本質的には「考える力」といえる。「国語・英語」はコミュ力、「算数・数学」はロジカルシンキング、社会・理科は…。世の中が速いスピードで動くなか、子どもが自分自身で決断して人生を歩んでいくことは、目の前の危機を回避し変化に順応していくうえで、より大事になってきている。そのためにもまず、問題意識をもちたい。自分の立つ現在地で、自分の領域の言葉を使って社会を語れるようになりたい。世間的に良い学校に入ったからといって、子どもは必ずしも幸せになるとは限らない。考えることを止めた途端に、人任せにした途端に、人は後退していく。勉強は、思考や経験を深めるための補助力にしか過ぎない。
「これは何?」と聞いても嫌な顔をされる、「これをやりたい」と言っても「やめなさい」と言われる。そんな状態では、子どもは自分のもっている好奇心を発揮できないから、子どもが好奇心を発揮するには、「安全な場所」であることが大事だ。逆に、一緒になって考えてくれたり、「この子はこんなことがしたいのではないか」とさりげなく誘導してくれたりすると、子どもは自分の好奇心のままに知的な探求を進めていける。親が子どものやることをしっかり受け止めることで、子どもは安心して、本来持っている好奇心を発揮することができる。個性を潰すも大人の一言、伸ばすも大人の一言だ。
育てたように子は育つ
結局、やる気が起きないというのは、多くの場合「自分の興味と学ばされる対象が結びつかないから」だろう。学習者自身が目的を設計し、トライ&エラーを楽しむような状況にない。内発的動機を高め、探究心と自己効力感を起動するためのスイッチに、「好奇心」は利用できる。どんな時代でも、新しいデバイスやメディアが登場するたびに、それが子どもに悪影響をおよぼすのではないかと大人は恐れる。スマホやゲームに没頭する子どもがいるなら、それを無理やり取り上げるよりも、なぜそこで熱中できるのかを観察し、その熱中がどこからきてどこに向かっているのか、つぶさに考察してみてほしい。子どもが見ているのは動画ではなく、その動画のなかで主張される何らかのメッセージ。その興味を解剖し、その子の探究心と照らし合わせる。没頭しているのは漠然とした「動画」ではなく、画面の奥で発せられる「好奇心の対象」であるはずだ。
小学校時期はいかにのびのびと楽しく過ごし、身の丈に合った学びができるかどうかが重要。それ以降の人生に大きく影響する。また、小学校時代は学習の基礎を学ぶ時期なので、嫌いな教科をつくらないようにすることも大事。子どもは楽しくて自分に向いていることについては、自分から続けたがる。「探究学習」は知的好奇心を伸ばす。探究的な学習をやらせると、子どもたちの好奇心が刺激され、結果的に従来型の学力も伸びたという研究も海外には多い。
たとえば英語は、英語そのものよりも「何を探究しているのか」「どういう切り口で世界と関わるのか」がはるかに重要。もし、探究が面白い段階まで深まっていれば、英語は手段として当然に必要だし、後々自然と学ぶことになるだろう。インターナショナルスクールに通えば、日常英会話はできるようになるかもしれない。しかし、それだけともいえる。どれだけネイティブと同じように英語の発音ができ、イントネーションが完璧であっても、中身がなければ意味がない。英語を先に一生懸命やっても、それを生かす機会がなければ、忘れていくだけ。何となく「英語できたほうが良いよね」と言われるままに勉強するより、必要性に駆られてから、短期間で爆発的に伸ばすほうが良い。要するに英語は道具であって、その人の思想や研究、制作物を国際舞台に乗せるための回路のようなものだ。語学力それ自体が目的化してしまうと、何のためにそれを使うのかという肝心のビジョンを失いかねない。英語よりも行動の源泉になる「知的好奇心」を先に延ばし、それを母国語でしっかり自分の言葉にできることが先だと思う。英語は必要になったときに学べばいい。
日本の教育現場は、知的好奇心を高めるというところを省いて、子どもたちの学習を高めようとしてきた。そこに間違いはなかっただろうか?他人に強制される学びではなく、「自分で試行錯誤して身につける学び」。学習と知的好奇心は、両輪で回さなければならない。
(つづく)
<プロフィール>
松岡秀樹(まつおか・ひでき)
インテリアデザイナー/ディレクター
1978年、山口県生まれ。大学の建築学科を卒業後、店舗設計・商品開発・ブランディングを通して商業デザインを学ぶ。大手内装設計施工会社で全国の商業施設の店舗デザインを手がけ、現在は住空間デザインを中心に福岡市で活動中。メインテーマは「教育」「デザイン」「ビジネス」。21年12月には丹青社が主催する「次世代アイデアコンテスト2021」で最優秀賞を受賞した。

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