【追悼】女性経営者の鑑~濱田光江氏(三共電機産業会長)逝く

濱田光江氏(三共電機産業会長)逝く

 濱田光江氏はこの5~6年、癌との闘病生活を送っていた。だが残念ながら11月20日、ついに永眠された。84歳であった。食事の約束を実行できなかったことが悔やまれる。筆者は仕事柄、種々の女性経営者たちとの付き合いがある。その中で故人に対する悪口を一度も聞いたことがない。つき合いは40年におよぶのであるが…。

先代創業者・夫の急死に立ち会う

 話は1987年2月に遡る。故人の夫・濱田鶴雄氏が会社の創業者であった。鶴雄氏とは2月の第1週に差しで忘年会を行ってきた。当日の鶴雄氏の体調が悪いことを筆者は感じ取っていた。まず1杯目の「乾杯」をしたのだが、「コダマさん、俺は一休みする」と言ってそのまま帰ってしまった。結果は最悪のものとなった。翌日の夕方、脳溢血で亡くなられたのである。会社を法人化して20年の歳月が流れていたときの不幸であった。

光江氏が経営者として本格活動

 それまで光江氏は夫のサポート役として経営に携わってきた。現社長・耕作氏(長男)は当時高校2年生であった。経営は光江氏が引き受けるしかない。「リスクをすべて被る。子ども3人を育てなければならない。従業員の生活を守らなければならない」という三重の覚悟で事業を引き継いたのだ。「まずは仕入れ先、得意先からの信用を築くことが先決」と決めてスタートを切った。(1)7社あった企業を2社に絞りこんだ(2)従業員には「安心してください」と言って陣頭指揮を取って走った(3)仕入れ・得意先・さらには関係先(友人知人)とは絶対、仲違いをしないことを宣言した。筆者が知る限り、光江氏の悪口を言う人にお目にかかったことはない(4)さらに生まれつきの商才を開花させたが、もともと経営力があったのである。

我が日本を愛する決意と実行力

 その結果、三共電機産業の社長を20年務めあげた。3代目には長男の耕作氏を抜擢した。20年間で内容充実の会社に仕上げたことは、経営者としてすばらしい能力をもっていたことを証明したのである。もちろん、人の10倍努力してきたからこそ成功の道を切り拓いたのであろう。経営が多忙のなかでも商工会議所、中経協、ライオンズクラブと積極的に活動してきた。自ら交友関係を拡大する努力には感服してきた。筆者もあちこちで光江氏と遭遇したことが走馬灯のように過ぎる。

 ところで濱田光江氏は、仕事ばかりでなく、奉仕団体での活動においても誰よりも貢献してきた人物であった。それは「福岡県防衛協会女性部会」の2代目会長として活躍したということである。「我が日本の防衛を担ってくれる自衛隊員の方々を少しでもお手伝いするのは国民の務め」という使命感をもって活動してきたことは圧巻であった。福岡での活動実績が高い評価を受けて、2019年9月には「全国防衛協会連合会女性部会」の第2代会長に就任したのである。共に活動した同志は、「常に陣頭指揮で走ってこられた。命令することは一度もない。我々は会長の行動力に従うしか選択の道は無かった」と語り、彼女を絶賛する。

 会社経営においては長男・耕作社長が3代目として采配を振るっている。事業歴60周年目を迎える。故人・光江氏にとって懸念するものは何もない。

 安心して成仏してください。いろいろと勉強させていただき感謝の念でいっぱいです。

 合掌

※故人のお別れの会が、来年2月にホテルオークラ福岡にて執り行われる予定です。

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