山形に帰郷した。最後の中学校クラス会のためである。全員81、82歳。芋煮会は馬見ヶ崎川の河原でやるのが定番なのだが、河原までの上り下りが厳しいという理由で仲間が知っている店で行われることになった。集まったのは16人。元国税庁長官、司書、洋品店主、農業、スナックのママ、俳諧の総帥(自称)、そして作家と様々。退職(官)後関わった団体自慢。一人身の自炊自慢、病気のデパート自慢、履歴自慢などなど。人間には寿命があることを無視した強かで懲りない面々。82歳の曼陀羅絵図。それにしても芋煮は美味しかった。
芋煮会は共同体の年中行事
山形のソウルフード、芋煮。秋になるのを待ちかねるように山形の人たちは誰でも市の北東部を流れる馬見ヶ崎川の河原で芋煮会をする。何しろ学校主催があるほどだ。町内の子ども会、友人たち、職場、趣味のサークルなど、少なくとも3回はやった。芋煮会は春のお花見とともに、生活を円滑に営むうえで、欠かすことのできない大切な年中行事の1つなのである。加えて、季節中何度も相手を替え芋煮会に参加する。誰でも気軽に参加できるから、いつの間にか数多くの出会いと新しいつながりが生まれる。芋煮会を通して結婚相手を見つけ、違う人生をスタートさせたという事例は後を絶たない。
専用の鍋に里芋、牛肉(味が出やすいバラ肉が最適)、こんにゃく、ねぎ(これにきのこ類を加える場合も)を入れ、醬油ベースの味付けで煮込む。それだけの実にシンプルなレシピなのである。以前は鶏肉が主流だったらしい。これに油揚げや豆腐、人参、大根まで加える人がいると聞く。邪道だ。海のある庄内地方では牛肉の代わりに豚肉、醤油の代わりに味噌を使う。
芋煮は北前船の舟止めから生まれた
山形での芋煮発祥の歴史を少しばかり紐解いてみたい。江戸時代、最上川の中流域に長崎という船着き場があった。川が荒れて舟運は不可能になることも多い。船止めは「待つ」しかない。船着き場の近くにある小塩という集落は里芋の名産地だった。北前船に積んであった北海道産の棒鱈などの干し魚と里芋を一緒に鍋で煮込む。船頭たちは退屈しのぎと仲間内の親睦、娯楽を兼ねてこれを食し、時間を潰した。京都の“おばんざい”である「芋棒」(里芋と棒鱈を煮込んだ正月料理)と酷似している。一般的には、これが芋煮の始まりとされている。牛肉が使われ出したのは大正時代に入ってからだ。いつ「芋煮会」と呼ばれるようになったのかも諸説ある。1892(明治25)年頃、山形歩兵第32連隊の兵士が、それまでの「野掛」という名称を「芋煮会」と改め、見合いや商談、送別の場としたという説が有力とされている。
1932(昭和7)年、旧制山形高校に入学した作家の戸川幸夫は、『日本の食生活全集⑥』の「聞き書き 山形の食事」の月報に、「わが山高時代の芋煮会」と題する小文を寄せている。そのなかで、「《男女七歳にして席を同じうせず》といった風習が厳然と守られていた」頃なのに、「秋の行事として行われるこの芋煮会の時ばかりは例外で、男女交際が大目に許されていた」。きっかけを合図に男女が「両陣入り乱れ」「いっそのこと一緒になんべや」となり、終えると「面白かったスや」と左右に分かれた、と書いている。芋煮会は、今でいうところのセルフヘルプグループであり、相互扶助システムとして機能していたことになる。
青森には芋煮会という年中行事はない。里芋のルーツは熱帯地方のタロイモである。品種改良して寒冷地でも栽培可能にした。青森では茎の付いた「ずいきいも」として店先で売られ、芋と茎を一緒に味噌汁などに入れて食するのが一般的だ。岩手県では県北と遠野地方との間、秋田県では秋田市以南で里芋が採れ、「いもの子汁」を食し、それ以北では「きりたんぽ」を食する。このあたりに里芋栽培の境界線があると考えられる。山形以南では芋煮会が数多く存在する。九州地方にもあると聞く。ただし食材は里芋を除くとさまざまだ。その地方の食文化と深く連携している。
山形で毎年、それも繰り返し行われた芋煮会を、母が亡くなり父をともなって所沢に転居してからも胸の疼きが収まらないかのように、毎年行った。場所は飯能市を流れる入間川の支流、中平河原である。所沢は日本でも有数の里芋の名産地である。一流の料亭で使われるブランド品。使わない手はない。学童クラブで1回、親戚筋、仲間、仕事関係者と1回。年2回実施した。20年続けた後閉会。しかしその2年後、団地の集会場で始めた高齢者の居場所「サロン幸福亭」でも芋煮会を再開。全国各地から集まった人たちが初めて私との接点をもった。その後も空き店舗を借りて再スタートさせた「サロン幸福亭ぐるり」(名称変更)でも芋煮会実施。2年前、閉亭させたことで終止符を打った。山形と所沢を含めると50年以上芋煮会に関わったことになる。でもまだあきらめたわけではない。山形から仕入れた特注の芋煮専用鍋は我が家のベランダのケースのなかでその時を待っている。
まぼろしの理髪店
今回の帰郷にはもう1つの目的があった。半年ほど前、ネットの地図で懐かしい理髪店を見つけた。「理容おおと」。生まれてから9歳までその地区に住んでいた私は、当然ながら「理容おおと」で散髪した。そこにケンちゃん(正式な名前も字も不明)という若い理容師がいた。そのケンちゃんに可愛がられた。10歳のときに引っ越し、その地域を訪れることはなかった。地図で「理容おおと」の名前を見つけたとき、身体中に電気が走った。一瞬にして当時の風景が蘇った。借りていた船山さんの離れも、足元が危なっかしい手づくりの狭い石段も、その途中にある大きな柿の木では蜂がぶんぶん飛んでいた。近くに山形駅の車両基地があり、転車台もあった。使用済みの石炭が坂をなして捨てられていた。まだ使えそうな石炭を拾い集め、炊事用に使用した。その理髪店が健在なのだ。ケンちゃんと話がしたい。でもケンちゃんは亡くなっているかもしれない。それなら跡を継いだ子どもでもいい。
当日、頭のなかにあるまぼろしの地図をたよりに向かった。実に73年ぶりである。奥羽本線のガード下。今でも使われている。でもその狭さ、短さ。手づくりの狭い階段はほんの一部が残されていた。柿の木はなかった。「理容おおと」は小さな坂を下ったところで見つけた。三角形の愛くるしい青色の屋根。可愛い入り口。思い出のなかにいるケンちゃんの息遣いが聞こえるような気がした。散髪してもらうために私の髪は伸び放題。白い扉のドアノブを回した。扉が開かない。再度…。やはりドアノブは回らない。扉に張り紙がしてあることに気づいた。そこにはA4用紙に「閉店」の文字が記されていた。遅かった。もう少し早く来ていれば…。店の周りを歩いた。人の気配がなかった。写真を数枚撮った。もうここに来ることはあるまい。私の9年間は儚くも消え去った。でも、あの当時の地図は確実に私の心に生き続けている。大人の目には坪庭なのだが、子どもの目には広い世界だった。私はいつまでも子どもの目線で見続けていたいと思った。
38年前から馬見ヶ崎の河原で、「日本一の芋煮会フェスティバル」を開催している。直径6.5m、重さ4tの大鍋「鍋太郎」は3代目。そこに県産里芋3.2t、山形牛1.2t、長ネギ3,500本などを県産の醤油で煮込んだ芋煮を、2台のショベルカーで掬い上げ、3万人の来場者に振る舞う。山形の秋の風物詩として有名になった。でも原点は河原に降りてかまどをつくり、薪で炊いて煮込む仲間たちで催すささやかな芋煮会が最高だ。もう一度馬見ヶ崎の河原でやりたい。82歳、懲りない面々のひとり言である。
「嗜み」(No.14 2012年春号 文芸春秋社 「人生を彩る山形の芋煮会 文・大山」)参考。
<プロフィール>
大山眞人(おおやま まひと)
1944年山形市生まれ。早大卒。出版社勤務の後、ノンフィクション作家。主な著作に、『S病院老人病棟の仲間たち』『取締役宝くじ部長』(文藝春秋)『老いてこそ2人で生きたい』『夢のある「終の棲家」を作りたい』(大和書房)『退学者ゼロ高校 須郷昌徳の「これが教育たい!」』(河出書房新社)『克って勝つー田村亮子を育てた男』(自由現代社)『取締役総務部長 奈良坂龍平』(讀賣新聞社)『悪徳商法』(文春新書)『団地が死んでいく』(平凡社新書)『騙されたがる人たち』(講談社)『親を棄てる子どもたち 新しい「姥捨山」のかたちを求めて』『「陸軍分列行進曲」とふたつの「君が代」』『瞽女の世界を旅する』(平凡社新書)など。









