2024年12月22日( 日 )

「コンビニの生みの親」鈴木敏文氏の光と影(前)~セブン-イレブンの買収は強運が味方した

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 日本のコンビニエンスストアの生みの親――。こう尊称で呼ばれる鈴木敏文・(株)セブン&アイ・ホールディングス会長兼CEO(最高経営責任者)が解任された大地震の余震は、収まる気配を見せない。鈴木氏が残した“光と影”を検証してみよう。

コンビ二創世の神話

 15年半前のNHKの人気番組「プロジェクトX」の録画を改めて見た。2000年10月に放映されたこの番組のタイトルは、「日米逆転!コンビニを作った素人たち」だ。
 「70年代、スーパー業界17位でジリ貧にあえいでいたイトーヨーカ堂。窓際の部署にいた30代の社員がアメリカで新しいビジネスを見つけた。小さな店舗に豊富な日用雑貨をそろえた長時間営業の店、コンビニエンスストアだった」というナレーションで始まる。セブン-イレブンの黄金時代に作成された「コンビ二の夜明けの歌」である。

7eleven その頃、中途採用組で新しい事業をプランニングする部署の責任者だった鈴木敏文氏らは、外食レストラン、デニーズ社との提携交渉のために、たびたび米国を訪れた。デニーズ社は日本市場を眼中に置いていなかったから、交渉は難航した。
 途方に暮れたある日のこと。小さな店に出会う。セブン-イレブンである。便利な店=コンビニエンスストアと呼ばれる業態のこの店は、品ぞろえが豊富で、一切値引きしない。
 「日本でもビジネスになる」――鈴木氏はこう直感した。鈴木氏はすぐさま、セブン-イレブンを運営するテキサス州ダラスにあるサウスランド本社に向かった。提携交渉は難航したが、1973年11月に契約を結んだ。しかし、巨額な契約金と常識を超える莫大なロイヤリティを支払う契約は、屈辱的なものだ。マニュアルは、日本ではまったく役に立たない代物だった。

 そのため日本のセブン-イレブンの店づくりは、一から始めた。今度は社内に異動希望者がいない。新聞広告で社員を募集。元商社マンや自衛隊のパイロット、労働組合の元闘士、パン屋の営業など15人の素人集団は、ゼロから独自のマニュアルを練った。1974年5月、東京・江東区豊洲に酒屋を改造した(株)セブン-イレブン・ジャパンの第1号店が開店した。
 人口に膾炙する、コンビニ創世の神話である。

鈴木敏文氏は「ラッキーな男」だった

 財界総理と言われた石坂泰三氏は、「経営者はラッキーな男でなければならない」が持論。鈴木敏文氏も「ラッキーな男」だった。強運が味方した。

 佐野眞一著『カリスマ』(日経BP社刊)は、セブン-イレブン買収の内幕を描いている。セブン-イレブンの最初の提携先候補は(株)イトーヨーカ堂ではなく、(株)ダイエーだった。伊藤忠商事(株)から持ち込まれた。ダイエーの中内功氏は、セブン-イレブンの店舗を見て、「こんなちっぽけな店に10億円以上のロイヤリティを払うなんて割に合わない」と、この話を蹴った。

 その後、サウスランド社は鈴木敏文氏と交渉を入るのだが、ダイエーを諦めなかった。ダイエーは日本一のスーパーだが、イトーヨーカー堂は「その他大勢」のスーパーにすぎない。サウスランド社側から、大井川をはさんで東はイトーヨーカ堂、西はダイエーと、日本を2つに分割してやったらどうか、という提案があったという。

 ダイエーが乗り気を見せていたら、ダイエーに持っていかれたことだろう。鈴木氏にはラッキーだった。

鈴木氏が「コンビ二の生みの親」になれた理由

 鈴木氏にとって最大の難関は、オーナーの伊藤雅俊氏の説得だった。鈴木氏は伊藤氏に4、5回稟議書を出した、伊藤氏はその都度、強く撥ね付けた。

 〈鈴木が粘り強く説得したため、伊藤もとうとう折れ、この提携話に渋々OKのサインをだした。イトーヨーカ堂のある幹部によれば、このとき伊藤は鈴木に対し、次のような条件を出したという。
 初期投資において五億円の赤字の範囲でやれ。もしそれ以上赤字が増えるようだったら、鈴木がもっているヨーカ堂の株を売って何とかしろ〉(『カリスマ』P432)

 このエピソードは、興味深い。鈴木氏がヨーカ堂の株式を持っていなければ、「コンビニの生みの親」になれなかった。中途採用組の鈴木氏が、なぜ、ヨーカ堂株を持つことができたのか。普通では考えられない。

 後年、伊藤氏は社員に株を持たせた理由をこう語っている。「昔の商店の奉公人にとって、夢は暖簾分けを許され、店を構えて主になること。しかし、チェーンストア時代の現代は、そういうわけにいかない。だから、自社株を分け与えているのだ」。
 中途採用組の鈴木氏が、ヨーカ堂の株式を持っていた理由だ。ヨーカ堂株を保有していなければ、伊藤氏がゴーサインを出したかわからない。ここでも鈴木氏は、ラッキーな男だった。

ドミナント戦略を取り下げる

 かねがね鈴木敏文氏は「セブン-イレブンの競争力は突き詰めるとドミナント戦略に行き着く」と語っていた。ドミナント戦略とは、高密度多店舗出店戦略を言う。一定エリア内に高密度で出店すれば、物流、広告、店舗指導の各面で効率の向上が期待できるからだ。
 そのため、儲かるところにのみ店舗展開してきた。儲かりそうもない地域には出店しなかった。そのことがセブン-イレブンの高収益の源泉だった。

 ところが、これまで出店しなかった空白地域にも出店するようになった。全国津々浦々、セブン-イレブンの看板が見られるようになった。
 ドミナント戦略は、セブン-イレブンの経営の根幹をなす。その持論を引っ込めてでも、儲かりそうもない地域に出店する。なぜか――。理由ははっきりしている。

 息子の鈴木康弘取締役のためである。康弘氏は、インターネット通販と実店舗を融合させるオムニチャネル戦略を推進中だ。オムニチャネルの勝負どころは、商品の受け渡し場所だ。全国どこでも受け渡しができるように、セブン-イレブンの店舗を全国につくったのである。

(つづく)

 
(後)

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