東ヨーロッパには何があるのだろう(11)
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カウナスの「杉原記念館」
殺戮の波は突然やって来て、極めて徹底、かつ迅速にユダヤの民を飲み込んだ…。
カウナスの歴史は古い。その歴史は11世紀にまでさかのぼり、交通の要衝として栄えた。有名な「ハンザ同盟」の拠点の1つでもあった。17世紀に入り、ハンザ同盟が衰退するとロシアやスウェーデンの侵攻を受け、さらに近世にはドイツ、ソビエトの侵攻を受ける。
第二次世界大戦中は、首都ヴィリュニスがポーランドに占拠されたため、暫定首都になったのがリトアニア第2の都市であるカウナスであった。カウナスは、首都ヴィリュニスから西へ80kmほどのところにある。人口は30万7,000人余り。当時、首都ヴィリュニスがポーランドに占領されていたため、カウナスが臨時首都となり、そこに日本領事館があった。
1940年夏、領事代理として、杉原千畝はカウナスにいた。
7月18日午前6時、外が騒がしい。カーテンの隙間からのぞくと、鉄柵に鈴なりの人。ナチスの迫害から逃れるため、主にポーランドからリトアニアへと逃れてきていたユダヤ人だった。ナチスに追われる彼らが望んだのは、日本の通過ビザ。シベリア鉄道でユーラシアを横断し、日本経由でカリブ海に浮かぶオランダ領キュラソー島へ行くという申請だった。鉄柵にすがりつき、ビザを求める人の数は100人以上。文字通り、着のみ着のままの様子だった。これらの様子を、記念館内で上映される映像が説明する。
当時、杉原一家がこの光景を見て、びっくりしたのは間違いない。当時の領事館――今の記念館は、ごくごく普通の一軒家である。家の前の道路も、大型バスと乗用車が何とか交差できる程度の広さしかない。しかも通りの曲がり角付近にある。そこに大勢の人がひしめいている。「いったい何が起きているのだ」――と、戸惑ったに違いない。彼らは口ぐちに、日本通過ビザの発給を迫った。彼らが必死だったのには、理由がある。当時、フランスを始め、ヨーロッパの国のほとんどはドイツ占領下にあった。トルコもその入国のためのビザ発給をストップしている。しかし、ドイツの占領下にある国が入国ビザを発給するはずがないし、発給してもらって入国しても、そこにはナチスの迫害が待っている。彼らが逃げるには、ヨーロッパ以外の“第三国”しかない。
そのため彼らに残されたのは、時間が経てばやがて閉鎖されるであろう、日本領事館しかなかった。日本に上陸さえすれば、あとは全米ユダヤ人協会を始め、在日のユダヤ人団体などの力で、アメリカなど安全な国に移動できる。彼らはカウナスにある各国の領事のなかで、唯一ユダヤ人に好意的だったオランダのヤン・ツバルテンディクが発給した、カリブ海のオランダ領の小島キュラソー島への入国査証を持っていた。もちろんこれは、建前の目的地に過ぎない。本国との交渉、自身の葛藤など、いろいろな紆余曲折を経て、杉原が発給したビザは2,139。それにより、6,000人もの命が救われたともいう。それでも、ナチスの侵攻を予想し、必死の行動を起こしたのは、ごく一部のユダヤ人に過ぎなかったはずだ。
無事ビザを手にし、160ドルと当時としては法外に高かったシベリア鉄度の切符を買い、無事日本にたどり着けたのは、リトアニアのユダヤ人の2%以下に過ぎない。100人のうち98人以上が、悲惨な運命をたどったということになる。こんなことを考えると、どんな手を使ってでも自国を守るというイスラエルの決意が見えてくる。日本が唯一迎えた侵略者は、アメリカ合衆国。我が国民には、戦争中はともかく、占領後の恐怖の記憶はない。一方、八紘一宇、正義と連携の名のもとに朝鮮半島や中国に進出した我々は、彼らから見てどうだったのか――。正義は時として、偏狭と独善の衣をまとうものだ。相手には相手なりの、誇りと都合がある。
(つづく)
<プロフィール>
神戸 彲(かんべ・みずち)
1947年生まれ、宮崎県出身。74年寿屋入社、えじまや社長、ハロー専務などを経て、2003年ハローデイに入社。取締役、常務を経て、09年に同社を退社。10年1月に(株)ハイマートの顧問に就任し、同5月に代表取締役社長に就任。流通コンサルタント業「スーパーマーケットプランニング未来」の代表を経て、現在は流通アナリスト。関連記事
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