東ヨーロッパには何があるのだろう(16)
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ひたすら野を走る
舗装した幹線道路は、制限時速130km。ちなみに街中は制限時速50km、田舎の未舗装路は制限時速70kmである。
ヴィタスは、時速130kmでバスを走らせる。どこまでも続く緑の海。四方に山がない。川もほとんどない。だから、道路もまっすぐ。異様に思うのは、見渡す限りに同じ風景が続くことだ。国土の30%以上が森林ということだが、幹線道路から見える平野は、我が国では考えられないくらい広い。しかし不思議なことに、その大部分がただ緑ということである。たまに菜の花や麦らしい緑を目にするが、それは例外に等しい。
リトアニアは、北緯55度あたり、日本で言えば、「サハリン北部」だ。気候的に考えれば、1万数千年前には氷に閉ざされていたはずである。仮に氷河があったとすれば、表土が削り取られ、土地はやせているはずだ。今でも冬は長く、暖かい雨が降る期間も短い。当然、地温が低い状態が、かなりの期間続いていることになる。そんななかででき上がる大地は、泥炭地か湿地ということになる。
このような土地にいくら堆肥を入れても、思うように大地は豊かにならない。一見豊かな農業国の風景だが、GDPに占める農業生産は3%あまりに過ぎない。日本円にすれば、3,000億円足らずというところだろうか。この数値が、この国の農業実情を明確に物語る。このような貧しい土地に、なぜ外からの侵入があったのか?
ヨーロッパは寒い。寒いということは、耕作期間や適応作物から見て、農業には向いてはいない。事実、16世紀にスペイン人により南米からジャガイモという画期的な寒冷地適性の作物がもたらされるまでは、餓死は身近な日常だったに違いない。おまけに疫病――とくにペストがその典型だ。14世紀のイギリスでは、住民の3分の1以上が死んだという。イギリスだけでなく、旧大陸では、そんな惨状は枚挙にいとまがなかったことは、歴史で学ぶ通りだ。
暮らしの中心に農業があった古代から近世まで、それはほとんど変わらなかった。そんな人々の間には、いつも豊饒な大地とより良い暮らしを求める、大いなる欲求があったに違いない。
貧困と環境的困難が続くと、人は神に死後を委ね殉教し、あるいは故郷を捨て、新天地に向かうのは今も昔も変わらない。たとえ、そこにまったく希望が見えなくても、現在の困窮と絶望から逃れるには、それしかないと考える。
その昔、アフリカを出た人類は、ユーラシア、アメリカを経て、南米パタゴニアの端まで足を伸ばしたのだ。異郷への進出――。それは、もはや本能に近い。(つづく)
<プロフィール>
神戸 彲(かんべ・みずち)
1947年生まれ、宮崎県出身。74年寿屋入社、えじまや社長、ハロー専務などを経て、2003年ハローデイに入社。取締役、常務を経て、09年に同社を退社。10年1月に(株)ハイマートの顧問に就任し、同5月に代表取締役社長に就任。流通コンサルタント業「スーパーマーケットプランニング未来」の代表を経て、現在は流通アナリスト。関連記事
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