2024年11月27日( 水 )

2017年 マンガ・アニメ世界の新しい動き(後)

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何よりも、描き手の個性を大切にしてくれた!

丸山 昭 氏
(同日開催の講談社社友会第26回作品展・特別展示コーナーより)

 第9回「トキワ荘フォーラム」は、「伝説の編集者 丸山昭氏を悼む」(総合司会・小室広佐子東京国際大学教授)と題して行われた。NPO法人日本マンガ・アニメトキワ荘フォーラム・小室裕一副理事長の開会挨拶の後、参加者全員で丸山昭氏に黙祷を捧げた。

 第一部のテーマは「丸山昭氏とトキワ荘そして並木ハウス」である。小出幹雄氏(トキワ荘塾塾生筆頭)進行のもと、マンガ家のちばてつや先生(公益社団法人日本漫画家協会理事長)と水野英子先生(「少女マンガの神様」的存在でトキワ荘の紅一点)、そして元講談社編集者の新井善久氏(丸山昭氏からいわゆる「手塚番」(手塚治虫担当)を引き継ぐ。『なかよし』、『少女フレンド』などの編集長を歴任)の3人が自由に、生前の丸山昭氏及びトキワ荘や並木ハウスを偲んだ。

 ちばてつや先生と新井善久氏は、「世にいう『電気あんま』事件(※)では、丸山昭氏とトキワ荘のマンガ家の先生たちにお世話になった」と振り返った。また、丸山昭氏が育ての親とも言われる水野英子先生は「今までにない型破りなアイデアや表現方法を出しても、決して頭から否定せず、それらを最大限に生かしてくれた。何よりも、描き手の個性を大切にしてくれた」と振り返った。

 当日、会場には一般参加者に混じって、トキワ荘住人であった、よこたとくお先生、山内ジョージ先生はじめ、みなもと太郎先生、村上もとか先生、田村セツコ先生、牧野圭一先生、ウノ・カマキリ先生、夏目房之介先生など多くの著名な先生方も来場、丸山昭氏を偲んだ。

※電気あんま事件
ちばてつや先生が執筆のため講談社別館に缶詰にされていた時、気分転換のために当時の担当者・新井善久氏に弟のあきお氏と一緒に電気あんまをかましたところ、新井氏は堪らずにちば先生を蹴飛ばしたので、先生は窓ガラスに体を突っ込み、破片で腕の腱を切る大怪我を負い、一時は漫画が描けなくなった事件。この時丸山昭氏がトキワ荘までタクシーを飛ばし、赤塚不二夫先生、石ノ森章太郎先生などに代筆を依頼、締め切り内に原稿は無事完成した。これを機に、ちば先生とトキワ荘メンバーの先生方との交流が始まった。

手塚治虫ゆかりの雑司ヶ谷で甦るアトム!

 第二部のテーマは「ATOMプロジェクト 雑司が谷の地に住んだアトムがあなたと話す」である。プレゼンターは奈良原敦子氏(講談社第四事業局担当局長 新事業プロジェクトチーム長)、秋元賢一氏(第四事業局担当次長)、関根永渚至氏(第四事業局)である。丸山昭氏と言えば、手塚治虫であり、手塚治虫と言えば『鉄腕アトム』である。

 鉄腕アトムは講談社グループの光文社『少年』で1952年に連載を開始し、63年には、日本初の連載テレビアニメとして放送開始、同年9月には『アストロボーイ』としてアメリカのNBCでも放送開始、当時のニューヨークの視聴率は30%を超えた。講談社では。1977年から約20年をかけて『手塚治虫全集』全400巻を刊行している。今年4月には、手塚プロダクション、NTTドコモ、富士ソフト、VAIOの協力を得て、『週間 鉄腕アトムを作ろう』(全70巻)が創刊された。当日の会場には、ほぼ完成品のアトムが持ち込まれ、『世界に一つだけの花』を歌う、ラジオ体操をする、年齢あてをする、などのパフォーマンスで会場を沸かした。

(了)
【金木 亮憲】

<プロフィール>
丸山 昭(まるやま・あきら)
1953年に講談社入社。『少年クラブ』編集部を経て『少女クラブ』編集長などを歴任。
「手塚番」(手塚治虫担当)として、トキワ荘~並木ハウスに通い、その間、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、水野英子、あすなひろし等のデビューに立ち合うなど多くのマンガ家を育てた。第5回手塚治虫文化賞特別賞を受賞。2016年12月逝去。

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