2024年12月23日( 月 )

中内ダイエーなくして、福岡がここまで発展することはなかった(4)~福岡に再びプロ球団を

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 1999(平成11)年、福岡ダイエーホークスが初のリーグ優勝をはたした。ホークスファンが歓喜に沸くなか、王貞治監督が1人の男性に優勝ボールを手渡した。今となっては、このシーンを覚えている人は少なくなったが、王監督からボールを受け取ったその人こそ、福岡で途絶えかかったプロ野球球団の歴史を復活させ、福岡の国際化に貢献したダイエー創業者・中内功氏である。
 福岡はバブル経済が崩壊し全国的に景気が落ち込んだなかでも、元気な都市として日本中から注目を集めるまでに発展を遂げているが、それを支えたのが中内氏であるといっても過言ではない。中内氏は一代でグループ年商3兆円、従業員10万人の巨大グループを率いていた。
 その中内氏は、福岡に大きな足跡を残した。プロ球団を福岡にもってきて、世界一と言われた福岡ドーム(現・ヤフオクドーム)を建設、シーホークホテル&リゾート(現・ヒルトン福岡シーホーク)などを建設するために、約30年前に1,500億円もの巨費を投じた。そのおかげで、福岡は国際化に向けて大きく前進し、今日の繁栄を手にする基礎となった。
 ホークスが福岡で根を下ろして30年の節目を来年に控える今こそ、福岡を創った中内氏の功績を振り返り、未来につなげていくときだと考える。

西鉄がライオンズを手放す

 ダイエーホークスが福岡に移る前、福岡市民に愛されていたのは、西鉄ライオンズであった。西鉄ライオンズは、1949(昭和24)年に西鉄クリッパースを結成したのが始まり。51年1月に西鉄クリッパースと西日本パイレーツが合併し、西鉄ライオンズが誕生した。
 結成当時は、パ・リーグ内でも上位に食い込み存在感を示し、54年には初のリーグ優勝をはたした。翌55年には南海に敗れ2位となったが、56年から58年は3連覇を達成し、西鉄ライオンズ全盛時代を築いた。
 しかし、59年からは低迷期に入る。63年に再び優勝を手にしたものの、これが西鉄ライオンズ最後の優勝となり、その後は低迷を続けた。

 西鉄ライオンズは数々の伝説を残し、福岡市民に勇気と感動、そして希望を与えた。それほど、西鉄ライオンズは福岡市民にとってかけがえのない存在であり、福岡にはプロ野球が文化として定着していたといえるだろう。

 しかし、72年10月28日、西鉄は球団経営権を譲渡するに至った。経営権を譲渡することになったが、スポンサーがなかなか決まらない。そこで、岸信介首相の秘書官を務めた後、ロッテのオーナーとして球団経営にあたっていた中村長芳氏がライオンズのスポンサー探しに奔走するが、難航する。そこで、中村氏は、ロッテオーナーを辞任し、自ら球団を買い取ることを決断。福岡野球(株)を設立し、オーナーに就任した。ライオンズはその後、太平洋クラブライオンズ、クラウンライターライオンズと名前を変えながら、何とか福岡でプロ野球球団を維持した。

年間20~30の公式戦を開催

 しかし、78年のシーズン終了後、経営難のため球団経営権を西武グループに譲渡することになった。ライオンズは、本拠地であった福岡を離れて埼玉県所沢市に移り、西武ライオンズが誕生した。ここに、福岡市民のライオンズは姿を消すことになった。

 この事態を憂い、福岡で灯され続けてきた野球の火を消さないためにと、同年12月、福岡市と地元企業が中心となり、平和台野球(株)が設立された。同社は野球興行会社として、福岡からプロの球団がいなくなってからも、西武ライオンズを中心とするプロ野球各チームによる公式戦を平和台球場において年間20~30試合程開催した。
 こうして官民一体となった団結と協力によって、ホークスが福岡に来るまでの10年間、プロ野球の灯をともし続けることができたのではなかろうか。

稲尾氏が球団誘致活動を

 プロ野球の灯を絶やさなかったのは、「いつか再び福岡に球団を!」という福岡市民の思いが強かったからである。こうした市民の願いに応えようと、福岡への球団誘致活動も存在した。
 実は、西鉄ライオンズの投手として3年連続日本一をはたすなど、西鉄黄金期の立役者で「鉄腕」の異名をとった稲尾和久氏が、球団誘致活動を行っていたのだ。

 稲尾氏は69年に現役を退き、翌年ライオンズの監督に就任、74年までライオンズを率いた。75年からは解説者として活躍していたが、84年、ロッテオリオンズ監督に就任する。監督を引き受けるにあたり、いずれはロッテを福岡に移転させることを条件として提示していたという。稲尾氏は、球団に福岡への移転を要望するだけでなく、実際に球団誘致活動を行っていた。個人的なものではあったが、福岡の財界などにも働きかけていたようだ。

 しかし、機が熟していなかったというか、時期が早かったのかもしれない。稲尾氏が東京にいたこともあって、福岡での活動に十分な時間を割けなかったのではないかと思われる。福岡への移転は実現することなく、稲尾氏は86年に監督を退任した。

 稲尾氏のロッテ監督退任にともない、球団誘致活動は終了するかと思われた。しかし、稲尾氏の思いを福岡JC(青年会議所)が引き継いだ。稲尾氏が福岡JCに加盟していた(77年に卒業)こともあり、その思いを当時のJCメンバーが引き継いだということであろう。

球団誘致運動で気運を高める

 86年、福岡JCはスポーツ文化問題委員会をつくり、球団誘致活動を始めた。署名運動では50万人もの署名を集め、市民運動にまで高めた。球団誘致運営委員会も結成し、球団誘致要望書をコミッショナーやセ・パ両リーグ会長に送り、10月には進藤一馬市長にも提出した。しかし、11月に入り、進藤市長が健康上の理由から市長を辞職、引退した。
 その後、12月に市長に就任したのが桑原敬一氏であった。

 87年には、「市民球団誘致市民会議」を結成し、シンポジウムや球団誘致サマーキャンペーンや東区の汐井球場でJCメンバーや地元の野球チームなど市民も参加したマラソン野球や市民パレードなどを開催した。そうした場面に桑原市長を招待し、球団誘致への理解を求め、福岡にプロ野球球団が必要であるとアピールした。
 こうして福岡での球団誘致への気運を高めながら、並行してプロ野球球団との交渉を進めた。その交渉相手は、ロッテだった。

福岡にロッテを誘致したい

 福岡JCは、「都市の発展にはランドマークが必要である。福岡のランドマークとなり得るのがプロ球団であり、ドームなどの球場である」と考えていた。そのなかで、なぜ球団招致の相手をロッテに絞ったのか――。
 福岡JCのメンバーとして球団誘致活動に情熱を傾けた元RKB取締役・王寺陽一郎氏は、「JCはプロ球団の誘致活動を始めるにあたり、『アジアの見える新球団』というテーマを設定しました。アジアの見える新球団とは、韓国や台湾と日本の合同チームによる新球団というイメージです。新球団ができれば、アジアからも人を呼び込むことができる。そういう球団づくりを考えた場合、韓国とつながりの強いロッテが最適であると考えたのです」と振り返る。ロッテを誘致し、アジアの合同チームになれば、アジアの球団になるという夢を描いていたのだ。

 福岡に来る可能性の高さを考えても、候補となるのはロッテだと考えていた。当時、ロッテが本拠地としていた川崎球場は老朽化しており、川崎から別の場所への移転が囁かれていた。ロッテ側も、準フランチャイズとして千葉や福岡を挙げていた。
 「ロッテを福岡へ」――との思いを抱いた福岡JCのメンバーは、何度もロッテ本社を訪ねている。後に、福岡市長になる山崎広太郎氏も責任者としてロッテとの交渉にあたっていた。フランチャイズを福岡にもってきた場合の採算ラインとして必要な観客動員数などについてデータを集め、球団運営に関する研究も進めていた。

福岡はロッテと交渉

 交渉を始めた当初は、ロッテ側から「年間予約席を1,000席保証してほしい」と提示された。球団側としては、年間100万人を動員したいと考えていたようだ。メンバーは、それを福岡にもち帰り、JC内部と財界とも相談し、相応に分担することで1,000席を確保できるメドを立て、再度ロッテを訪れる。
 しかし、「1,000席では採算に乗らないので、2,000席必要」だと条件が引き上げられた。そうした交渉を繰り返すうちに、最終的には4,000席まで引き上げられた。どうしても福岡に球団を復活させたいという思いを実現するため、JCは財界の協力を得て、何とか4,000席を確保できるまでに話をまとめた。

 ところが、福岡側の努力にもかかわらず、ロッテ側からは「もう少し待ってほしい」といなされてしまい、手ごたえが感じられなくなった。
 ロッテ側にも事情があった。当時、ロッテは社長・重光氏が母国韓国に「ロッテワールド」を建設中で、巨額の資本を投下していた時期だったため、球団移転について本腰を入れられる状況ではなかったのかもしれない。

 88年に入っても、ロッテが福岡に来る気配がない。どうも雲行きが怪しいと感じていた同年8月28日、ダイエーの南海ホークス買収が表面化した。しかも、ダイエーは南海ホークスを福岡にもってくるというのだ。
 ロッテではなく、ライオンズ時代の宿敵ホークスである。福岡JCにとっては、まさに寝耳に水だった。JCだけでなく、福岡の経済界やライオンズを応援してきた一般市民にも衝撃が走った。

(つづく)
【宇野 秀史】

 
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