2024年12月27日( 金 )

「西郷(せご)どん」対談 子孫が語る!~明治維新を牽引した薩摩のリーダー(1)

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 約250年続いた幕藩体制に終止符を打った明治維新。その原動力となったのが現在の鹿児島県を中心とした地域にあった「薩摩藩」である。薩摩藩は当時、500万両の債務を抱えて困窮していたものの、下級武士から家老となった調所笑左衛門(広郷)による大胆な財政改革で300万両ともいわれる蓄財を達成。この潤沢な資金が、討幕軍のリーダー西郷隆盛を経済的に支えたとも伝えられている。その西郷はいま、明治維新150年を記念してNHK大河ドラマとして放送中(『西郷どん』)だ。西郷が大河で描かれるのは、1990年の『翔ぶが如く』に続いて2回目で、根強い人気がうかがえる。西郷とはどんな人物だったのか、明治維新を生きた先人の子孫、お2人に語っていただいた。

500万両の借金を帳消しにした調所笑左衛門広郷

 ――NKHの大河ドラマ「西郷どん」(せごどん)が放送中で、鹿児島に対する関心が高まっています。今回は、薩摩藩の財政を立て直した家老・調所笑左エ門(広郷)さんの子孫である調所一郎さんと、西郷さんがよく宿泊していた宿の当主・平瀬十助さんの子孫である平瀬十助さんにお話をうかがいます。まず、お2人の自己紹介からお願いします。

▲平瀬 十助 氏

 平瀬十助氏(以下、平瀬) 私は、西郷さんが狩猟などで宿泊された「南洲翁宿所」(南大隅町)の宿主・平瀬十助から数えて5代目にあたります。私の名前は、この十助さんの名前をいただいたそうです。曽祖父は十助の子どもですが、十助には息子がいなかったので肥後から養子をもらいました。以来、我が家には肥後の血も入っています。

 調所一郎氏(以下、調所) 私は、調所笑左衛門(広郷)から数えて7代目になります。当家では「廣」を通字としていて祖父は廣良、父は廣志でしたが、父と祖父が先祖の名前にこだわるのはやめようと決め、私に一郎、弟に謙一とつけました。

 島津家の家老はほとんど島津の人間が務めますので、下級武士から家老になったのは、江戸時代を通して島津家では笑左衛門が初めてだそうです。

 ――調所さんのご先祖が家老になったころの薩摩は、500万両もの借金を抱えていました。

▲調所 一郎 氏

 調所 当時の薩摩の年間収入をいろいろな資料から調べてみると、13万両前後だったようです。一方、500万両の借金に対する金利を考えると、最低でも30万両、高いと80万両という人もいます。いずれにしても利子の支払いだけで年収の何倍もありましたから、藩の財政は事実上破綻していたわけです。

 ――笑左衛門は、その500万両の借金を消してしまった。

 調所 消したというより、表(おもて)の帳簿上では250年払いとなっていたので実際には残ってはいました。明治の初めごろまでは、毎年2万両ずつ返していましたからね。

 平瀬 借金の処理の仕方だけを見れば、めちゃくちゃですよね(笑)。

 調所 農本主義的な封建制度から、重商主義といいますか資本主義的要素が入ってくる過程にありながら、江戸、京都、大阪という3都の商人に対して、無利子の250年払いなどという事実上の踏み倒しをやる。商人資本を敵に回して、薩摩藩の密貿易品やサトウキビ、ウコンなど商品作物をどうやって捌いたのかということが、ずっと疑問でした。

 それが15年ほど前、鴻池家の末柄の方と、あるお茶会でたまたま隣になりました。鴻池は薩摩藩から踏み倒された商家ベスト3に入ると言われているんです。その際、ある家元の方から「鴻池さん、あんたのご先祖からぎょうさん踏み倒しはった、島津の御家老でっせ」と紹介されました。いきなり紹介されたものですから、「その節はどうも」というと、その鴻池さんが、「いやいや全然恨んでいません。踏み倒しと言われているのは、あくまでも表向きの帳簿です。裏の帳簿的には、密貿易品などを優先的に扱わせてもらって、かなり儲けていました」と。噂は聞いていたのですが、鴻池さんから聞いて「そうか」と納得しました。

 あの時代の薩摩藩は破綻していますから、かなりの荒療治をやらないと、20年で討幕の基礎になるぐらいまでもっていくのは無理。きれいごとだけではだめなんですね。かなり酷いことやとんでもないことをやっていたと思います。

(つづく)
【文・構成:宇野 秀史】

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