「西郷(せご)どん」対談 子孫が語る!~明治維新を牽引した薩摩のリーダー(4)
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根占と平瀬十助を友とす
――西南戦争前、根占が気に入っていたようですが、いつごろのことですか。
平瀬 1875(明治8)年3月のひな祭りのころに3日間お見えになりました。根占のうちの近辺の風景などが気に入られたようで、翌年2月にも来られました。
西郷さんは、根占の自然だけでなく西郷さんが宿泊された宿主である平瀬十助を非常に気に入ったみたいです。76(明治9)年は5日間ほど来られています。77(明治10)年になると根占を3度訪れ、1月24日から2月2日までおられました。
――いつも1人で来られたのですか。
平瀬 最初は犬4匹にお供の方。明治9年は犬3匹にお供の方と来られています。食事は3杯くらい食べ、ウルメの刺身などが好物で、タコは好まなかったようです。ミカンは大好物でした。西郷さんが同じ所に3回以上訪れたのは、うちと金峰町の伊作(いざく)だけです。
――1877(明治10)年になって、西南戦争に突入します。原因となったのは、私学校生徒による弾薬庫の襲撃爆破でした。西郷さんは、その知らせを平瀬さんのお宅で受けられるわけですが、その時知らせにきたのが西郷さんの弟、小兵衛ですね。
平瀬 第3回目の御出は滞在日数およそ10日、従者は辺見十郎太と従者の矢太郎でした。2月1日、小兵衛さんは、鹿児島から直接、早船で駆け付けました。
――そこで有名な第一声、「ちょっしもた」がありますね。
平瀬 鹿児島で「ちょっしもた」というのは、予期せぬことが不意に起きた時に使います。当時、西郷さんの給仕をしていたのは、平瀬十助の二女で当時14歳だったふねです。私学校の生徒が弾薬庫を襲撃したことに対して、「それは、おいが悪い。武器なんかは、長州にいえばどしこでん来たもんの」という西郷さんの言葉をふねが聞いています。それから考えると、それは「しまった」なんですよ。落ち着いて報告を聞いたと思います。
――わかってはいたのでしょうね。
調所 1874(明治7)年に佐賀の乱、76(明治9)年に熊本の神風連の乱や萩の乱が起きて、「次は薩摩ではないか」と当時の人は噂していましたので、決して予想外のことではなかった。西郷さんの「ちょっしもた」は、自分が生徒たちを抑えられなかったという意味でしょうか。
平瀬 きちんと監督下に置けなかったという意味だと思います。
――西郷さんの威光をもってしても暴走を止められなかったというのが、わからないですね。
平瀬 止められなかったというよりも、当時はあまり監視していなかったということだと思います。きちんと監視していたら止められていたと思いますよ。当時は私学校生徒の多くが鹿児島県の要職に就いていましたから、1人歩きしたのではないでしょうか。
(つづく)
【文・構成:宇野 秀史】関連記事
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