2024年12月27日( 金 )

「西郷(せご)どん」対談 子孫が語る!~明治維新を牽引した薩摩のリーダー(5)

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「神棚を直せ」

 ――報告を聞いた西郷さんは、すぐに鹿児島に戻られたのですか。

 平瀬 1泊して戻っています。2月1日に小兵衛さんが知らせにきていますが、その前に辺見さんが陸路で先に着いていますので、辺見さんとの話が先だったようです。西郷さんは1泊して2日の朝にうちを出られて、大根占までは陸路で大根占から高須、垂水を経由して3日の朝、午前9時には武(たけ)の屋敷に着いています。

 ――根占から西南戦争に従軍された方もいらっしゃいますか。

 平瀬 根占私学校隊をつくって、2月2日から8日後の2月10日には漁船をチャーターして50名が鹿児島に行ったという記録が残っています。先祖も大根占まで見送った時に、「私も行きます」と言ったのですが、「お前は連れて行かん」と西郷さんは十助に10円渡して「お前の所の神棚を直せ」と。私学校から身辺警護の目的で派遣した4人が暴発させて、神棚が壊れたことを気にかけておられたのですね。

 ――結局、連れて行ってもらえなかったのですか。

 平瀬 それで、2日後に鹿児島の武邸を訪ねますが、西郷さんから「お前はせんけ(下半身の病気)があるから、病気持ちは連れいかない」と。西郷さんも沖永良部島に居た時に蚊を媒介とした風土病で睾丸が腫れていたそうです。ふねの話では、2人が睾丸の話で大笑いしていたというのも残っています。同じような体格で、同じような病気があったこともあって、ものすごく気が合ったようです。従軍は許されなかったが、ちゃんと見送って25日に根占に帰っています。

 ――ご先祖は、それぞれ立場は違えども西郷隆盛という人物に接しています。いろいろな西郷像が出てくるのでしょうが、西郷隆盛のような人物は日本の歴史上、いないのでは。多様すぎて捉えどころがありません。

▲調所氏の著書

 調所 現在の価値観、倫理観だけで考えて、現代人が良いと思う部分だけを強調する人が多いのですが、美談だけしか取り上げないと、逆に光が安っぽくなるように思います。今日の基準で考えれば、「あれっ?」という部分もありますが、それはマイナスになることではありません。マイナスに評価する人がおかしいわけで、そこもわかったうえで西郷を見れば、全体としていぶし銀のような深い光になると思います。

 平瀬 西郷さんは軍人に近い考え方というか、物やお金にあまり執着が無かったような感じですね。

 調所 あれは見上げたものですね。私的利益を得ようと躍起になることがありませんから、それはすばらしいと思います。徳川慶喜が「幕府には西郷に匹敵する人物はいるか」と尋ねると板倉勝静が、「残念ながらいません」と答えたということが、慶喜の公的資料に残っています。

 ――西郷さんは農本主義的なものを目指していましたが、西郷さんの考えや目指したものをもう一度評価して、日本のこれからの政策にも生かしてほしいですね。

(了)
【文・構成:宇野 秀史】

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