2024年12月28日( 土 )

「西郷(せご)どん」対談 子孫が語る!~明治維新を牽引した薩摩のリーダー(3)

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あくまでも士族優先

 ――西郷さんを見る時、二面性がついてまわるように思います。先ほどの黒糖の件でも、西郷さんの二面性、たとえば武士としての藩優先の顔と庶民の側に立つ顔の両方を見ることができますね。

 調所 二面性といっても、優先順位ではいつも士族が優先だったと思います。あくまでも士族優先、リーダー優先です。下々の者には愛情をかけなければならないが、リーダーが滅びてしまってはしょうがない。リーダーと士族を守るためには多少の犠牲は仕方ないと考えていたと思います。実際に、奄美のことを悪く書いている手紙もあるし、すごく慈しんでいる手紙もあります。評価もそうだし、複眼でみないといけないのが西郷ですね。

 ――西郷さんは若いころ2回、島に流されて帰ってきたら薩摩藩の軍事権を握っています。なぜ、そんなことができたのか。このあたりもよくわかりません。

▲平瀬 十助 氏

 平瀬 島津斉彬公がつくった精忠組のリーダーでしたから。2回目は久光の逆鱗に触れて、完全に牢に入れられていますね。それでもすぐに戻ってくる。そこで、いきなり薩摩藩の軍事を掌握しているというのは、よくわからないところですね。

 西郷さんの二面性というのは評価にも現れていますよ。流されたり、リーダーになったり。明治に入ってからは逆賊となりますが、それでもまた、名誉を回復しています。

 調所 『丁丑公論(ていちゅうこうろん)』で福沢諭吉は、西南戦争で悪口をいうやつがいるが、明治政府のほうが理想とかけ離れたことをやっているからだと、西郷擁護の立場をとっています。一方、大隈重信は、「余人の多くは西郷を英傑と称するが、人材登用が独善的で、あいつは駄目だ」というようなことを書いている。

死に場を探していた?!

 ――西郷さんはつかみどころがない。なぜ、西南戦争を起こしたのでしょうか。

 調所 大山巌の息子の大山柏が書いた『戊辰役戦史』を調べたことがありました。戊辰戦争での西郷さんはかなり綿密に研究し、さまざまなパターンをシミュレーションしています。一方、西南戦争では、やる気のなさを感じていました。

 僧侶の月照との入水で自分だけが生き残った時点で、自殺願望があったという学者もいます。西南戦争のやる気のなさからは、死に場所を探し求めている西郷の本音もうかがえます。

 平瀬 西郷さんには、そういうところがずっとあったのだと思います。何度も死にかけていますので、自殺願望というか「戦で死にたい」という。征韓論の時も、自分が大使で行って殺されれば、それで戦争になると。

 調所 自分が捨て石になって、自分がやられたら戦をすればいいじゃないかということを書いていますね。そうすると、西南戦争というのは、一種の統一国家建設の為というか、自らの死をもって明治維新の完結というような意味合いがありますね。

 平瀬 南大隅の私の家に石碑があります。その決意をしたのは、根占(ねじめ)のこの場所だと、磯長得三さんという石碑を建ててくださった方がおっしゃっています。西郷にとって根占は狩猟の地というだけでなく、ここで鹿児島の子弟たちに命を預けると覚悟された場所だということで、このことは後世に残しておかなければいけない。

(つづく)
【文・構成:宇野 秀史】

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