2024年12月01日( 日 )

珠海からの中国リポート(3)

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福岡大学名誉教授 大嶋 仁 氏

「人民」の国・中国

 中国とは中華「人民」共和国のことで、通貨も「人民元」である。共産党とつながりの強い名門大学は「人民大学」。「人民」という言葉は、よほどこの国にとって重要なのだ。

 共産主義を標榜するのだから当然だろう。そういわれるかもしれないが、資本主義経済を導入する以前から、この国の社会格差は日本以上と言われてきた。「どこが社会主義なんだ。日本のほうが、よほど社会主義的ではないか」とは、日本に長く住む中国人がよくいうことである。

 そうであっても、やはりこの国は「人民」の国である。一般庶民の表情、とくに労働者や農民の表情が極めて明るく、この国で最も親しみがもてる人種は「下層」と呼ばれる人々であると、多くの外国人が実感している。共産党の一党支配は「人民」あってのものであって、「人民」を大切にしない政治は成り立たないという前提がこの国にはある。

 珠海に来る直前、金谷治氏の『中国思想を考える』を読んだ。氏によれば、孟子の言葉にすでに「民本主義」が見られる。孟子曰く、「民を貴しと為し、社稷を之の次とし、君を軽と為す」。民生が悪くなれば政府を倒しても構わない。この革命思想は、確かに孟子からきている。

 金谷氏にかぎらず、溝口雄三氏も含めて、日本の中国研究者の多くが、現代中国を古来の中国思想の継承者と見ている。彼らの書いたものを読んだ後で中国庶民の生活を眺めると、たしかに民本主義の伝統が生きていると見えてくるのである。大半の中国人を貫くモラルは、たいがい孔子からきている。時おり一切を煙に巻き、世の価値観を見下して見せるインテリには、老荘の影が見える。

 香港と珠海を行き来する若手の英文学のQ先生は、こんなことを言った。「私が中国本土の生まれであるからかも知れませんが、どうも香港の貧民は惨めで、スキがない。思わず、警戒してしまうんですよ」

 「それって、香港が社会主義を知らないからですか?」と尋ねると、「多分、そうだと思う」という。同じ貧乏でも、中国本土の人間は心底明るいのだそうだ。

 香港はイギリスという旧宗主国の文化にかなり影響を受けている。世界の金融の一大中心で、すべてがビジネスライクである。そのひずみが、中国本土の人間から見れば「悲惨」と見えるのかもしれない。資本主義の徹底した香港と、社会主義的な枠内で資本主義を進めてきた中国。この2つが1つになることは、ありそうもない。

 中国本土が「人民」の国であるのは、前出の金谷氏なら、孟子の遺産だというだろう。溝口氏なら明代にできた互助組合的小集団が生き続けているからだと説くだろう。学生食堂の裏庭で、段ボールをござのように敷いて弁当を食べている二十名ほどの婦人労働者がいた。大声でなにかを話し、皆で一斉に笑っている。この活気、この明るさこそが、現代中国の根底にある「人民の力」なのだ。

 それに比べると、学生や教師たちの顔色が悪い。日本でも一時代前のインテリの表情は暗かったが、ここの学生や教師たちの度の進んだ近視眼鏡には、およそ人間らしさの光が感じられない。

 学生たちはテストに終われ、丸暗記に明け暮れている。多分、小学校のころからそれできている。彼らは自分の頭脳が辞書化していることに少しも気づいていない。教師は教師で、年間数本の論文を書かないと昇格がおぼつかない。科研費をとるための書類づくりで寝る暇もない。「こんなことでは真の学問は育たないぞ」と言いたくなるが、言ったところで余裕のない人間の耳に入るはずもない。しかし、このままではせっかく経済大国になったのに、将来まずいのではないか、と他人事ながら心配してしまう。

 そういえば、私の知り合いの甥っ子で、上海で大学院生を指導している理論物理学者がいる。珠海まで遊びにきてくれたので、中国の学生はどうかと聞いてみると、こんな答えが返ってきた。

 「勉強熱心で、素直で、こちらの生活上のことまで手伝ってくれるので、感心する面はあるんですが、いざ研究となると、ダメなんです」

 「どういう点がダメなの?」と聞くと、「研究ってのは、疑問をもち、その疑問を突き詰めていくことで発展するんですが、そういう精神が育っていません。多分教科書に書いてあること、先生のいうこと、そういうものを信じ切ってるんでしょうね。そういう文化だから、政治や社会は安定するかもしれないけど、科学には向きません。僕の仕事は、そういう彼らに、科学という文化を教えることなんです」

 こんな殊勝なことをいうS君を、立派だと思わずにいられなかった。「高い給料をもらってるんだから、当然です」と本人はいうが、こういう若い人がまだ日本にいると思うと、なんとも心強かった。

(つづく)

<プロフィール>
大嶋 仁 (おおしま・ひとし)

 1948年鎌倉市生まれ。日本の比較文学者、福岡大学名誉教授。 75年東京大学文学部倫理学科卒業。80年同大学院比較文学比較文化博士課程単位取得満期退学。静岡大学講師、バルセロナ、リマ、ブエノスアイレス、パリの教壇に立った後、95年福岡大学人文学部教授に就任、2016年に退職し、名誉教授に。

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