続々・鹿児島の歴史(6)~江戸・明治初期と大隅~
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薩摩藩の外城制度、門割制度(前述)について、少し付け加えます。
外城制度は領内を鹿児島城下と113の外城に分けたものですが、外城の内訳は地頭所(藩直轄)92外城、私領(重臣の一門・一所持支配)21外城です。私領21は薩摩に13、大隅は種子島(種子島氏)を含めて7、日向国諸県郡は1(都城島津家)です。戦国時代に大隅の中心一族だった肝付氏と禰寝氏も薩摩に領地替え(前述)です。本土の大隅6私領はほとんど鹿児島湾沿いです。
門割制度について。1664年、琉球を除く領内は652村あり、内訳は薩摩258、大隅230、諸県郡164です。税として、門単位の高掛(たかかかり)賦課と農民個々に対する人別賦課がありました。前者は年貢で、高1石(薩摩藩は籾9斗6升)に対し米3斗5升(籾7斗)、後者は年間12日間の労役または1日5分の代銀で、ほかに人別出銀や織木綿(女子)がありました。他藩に比べ、著しく負担が重かったわけではないと考えられていますが、「潰れ門」という言葉もあり、厳しいことに変わりはありませんでした。「門」を維持するためにとられたのが「人配(にんべ)」です。必要に応じて強制的に移住させるものですが、代表的なものが、不適地まで耕作していた西目(薩摩半島)から未開墾地の多かった東目(大隅半島)への移住です。江戸初期から明治末まで続き、大隅の1/3は移住者の子孫といわれます。地名や名字等になごりがあります。
なお、門割制度の関係から、大地主=豪農は発生しませんでした。明治6年の小作地率は、佐賀26%、山口24%、高知22%に対し、鹿児島は4%です。その後の地租改正とデフレーション政策で、同20年に30.2%で東北諸県並みです。福岡・佐賀は40%以上でしたが、逆に大島郡はわずか1.4%です。小作地率のピークは大正13年で、小作争議も全国的には大正期から発生しますが、鹿児島は昭和初期まで数件でした。
農業の特徴的なものとして、農民が豊作を祈ってつくった石像の田の神様(たのかんさあ)があります。領内のみで、1800以上現存し、1705年のものが最古です。盗まれることを好み、盗んでまつると豊作という風習がありますが、薩摩では地蔵や大日如来をイメージした仏像型、大隅では衣冠束帯に笏を持つ神像型が多いです。
薩摩藩の支藩である佐土原藩について。島津氏が秀吉に降伏した時、義久の末弟家久は、いち早く投降したため日向国佐土原を安堵され、独立した大名となります。翌月家久が病死(毒殺の説あり)すると、甥の豊久が跡を継ぎます。豊久が関ヶ原の戦いで義弘の身代わりとなり戦死すると、佐土原は没収されます。1603年返還されると、義久の従兄弟の以久(もちひさ)が日向佐土原2万7000石を与えられ初代藩主となります。なお、清宮(すがのみや)貴子内親王と結婚した島津久永氏は、この佐土原家です。
明治初期の県名について。明治4年の廃藩置県で、薩摩・大隅・日向3国は当初鹿児島・飫肥・佐土原・高鍋・延岡・人吉・日田の7県となり、同年鹿児島(薩摩一国と離島と琉球国)・都城・美々津の3県となります。5年には都城県の姶良・菱刈2郡が鹿児島県となり、琉球国分離です。6年には美々津・都城2県が廃止され、日向一円を宮崎県へ、大隅は鹿児島県です。9年には宮崎県を廃止し、3国一円を鹿児島県です(この時一向宗解禁は前述)。16年には宮崎県を分置し、諸県郡を南北に分け、南諸県郡(志布志・大崎)は鹿児島県です。29年、南諸県郡廃止で現在の鹿児島県確定です。
(つづく)
<プロフィール>
麓 純雄(ふもと・すみお)
1957年生。鹿児島大学教育学部卒、兵庫教育大学大学院修士課程社会系コース修了。元公立小学校長。著書に『奄美の歴史入門』(2011)『谷山の歴史入門』(2014)『鹿児島市の歴史入門』(2016 以上、南方新社)。監修・共著に『都道府県別日本の地理データマップ〈第3版〉九州・沖縄地方7』(2017 小峰書店)。ほか「たけしの新世界七不思議大百科 古代文明ミステリー」(テレビ東京 2017.1.13放送)で、谷山の秀頼伝説の解説などに携わる。関連キーワード
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