2024年12月22日( 日 )

長男を後継者にした鈴木修・スズキ会長の「引き際」(後)

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代々続いてきた婿養子経営を断念

off_fukei 2つ目は、長男を後継者にしたこと。スズキは同族企業のイメージが強いため、やはり世襲かと思った向きが多かっただろう。しかし、後継者育成にことごとく失敗したことの苦肉の策だった。「会社がすべて」の修氏は息子を後継者にする考えが、もともとなかったからだ。
 スズキは婿養子が経営する伝統がある。同社は1909年に鈴木道雄氏が鈴木式織機製作所を起こしたことに始まる。道雄氏の長女の娘婿となった俊三氏が2代目社長、同じく道雄氏の3女の娘婿の實治郎氏が3代目社長に就いた。4代目の修氏は俊三氏の長女の娘婿だ。
 機織機製造の町工場からスタートし、オートバイ、軽自動車、インドで乗用車のトップシェアを占めるまでに飛躍したのは、経営が優秀な婿養子に引き継がれてきたことにある。
 婿養子経営は江戸時代から大店で行われてきた継承法だ。「売り家と唐様で書く三代目」となることを防ぐためだ。血縁よりも、店の継続がなによりも大事。その結果、娘婿という養子制度が生まれた。

 修氏は養子経営を踏襲することを考えた。2001年に自身の長女の娘婿である小野浩孝氏を経済産業省から迎えた。スズキ入りするとすぐ、40代半ばで取締役に抜擢、帝王学を学ばせてきた。
 あろうことか2007年、後継者の小野浩孝氏が急逝した。52歳の早すぎる死だった。修氏の引退のシナリオは完全に狂った。
 スズキはトップ人事で不運に見舞われてきた。小野氏を後継者に据えるまでのつなぎとして、婚姻関係のない5代目社長に戸田昌男氏、6代目社長に津田紘氏を起用した。修会長の要求に応えるのが重圧となり、いずれも健康不安を理由に退任した。
 修氏は2008年社長に復帰し、会長と社長を兼務した。後継者の大本命である小野氏が亡くなり、手持ちのカードは長男の俊宏氏だけになってしまった。代々、娘婿がトップを務めてきたスズキにとって、実子(長男)が継ぐのは、異例なことだ。後継者づくりに失敗したと言わざるをえない。

経営の実権を手離さない

 3つ目は、修氏は社長職を息子に譲っても、経営の実権を渡すつもりはさらさらないこと。社長交代の発表会見で、「基本方針は私が決め、業務執行は新社長中心に決めてもらう」と述べた。単に肩書きが変わるだけ。修氏が権力者であることは不変だ。
 修氏には、経営の実権を経営能力に不安がある長男に渡せない事情がある。
 スズキが、独フォルクスワーゲン(VW)にスズキ株式(19.9%)の買い戻しを求めて、ロンドンの国際仲裁裁判所に仲裁を申し立てた裁決が大詰めを迎えたからだ。
 スズキが勝った場合は、新たな提携先を探さねばならない。それをやり遂げるまでは、辞めるわけにはいかないのである。

 俊宏新社長は、カリスマ依存ではなく、「チーム・スズキ」を掲げて衆知を集めた経営スタイルを目指すと宣言した。
 トップダウンの父親の会長と、経営チームを重んじる息子の社長。経営手法は水と油。メディアのなかには、創業者の父親と後を継いだ長女との大塚家具の骨肉の争いを予測する向きもある。
 しかし、おとなしい俊宏氏が父親に反旗を翻すことはありえない。式典でテープカットするだけのお飾り社長になる公算が高い。次世代へのバトンタッチはうまくいかない。
 卓越した経営者である鈴木修氏だが、37年間トップの座にいれば弊害が出る。後継者育成にことごとく失敗し、終身トップとして経営に口を挟む。引き際を誤り、晩節を汚した。「引き際の美学」に縁遠かった。

(了)

 
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