【凡学一生のやさしい法律学】関電責任取締役提訴事件(5)嘘を許さない社会をもとめて
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日本社会は、嘘と不正にあふれている。このような社会をつくった団塊世代の一員として、子や孫に本当にすまなく感じている。日本のような先進国で、とくに「主権者教育」、つまり、個人個人に本当の人間としての権利を認識させる教育をしなければ、刹那主義と拝金主義が蔓延する「正直者が馬鹿を見る社会」が実現してしまうからだ。
青年のころ、法律を学ぶことで社会正義の実現に関われると信じていた自分が本当に世間知らずであった。だが、今となって思い返すと、自然と不思議な笑みを誘う。
さて、「関電疑獄事件」は少数の取締役の善管注意義務違反による民事賠償事件へと、「法匪」によって矮小化された。これが、日本の「法匪」の伝統的な手法であることを国民は知らない。ここには「法匪」の常套手段として、「似非論理」が脈々と流れている。この「似非論理」を明治時代から現代まで振りかざしてきた者は、いうまでもなく法曹界の最高権威者である裁判官である。
かつて日本国憲法が施行され、国民は初めて個人の権利を国家に対して主張した。しかしその請求は、ことごとく裁判官らによって退けられた。その法的論理の主役が「公共の福祉」論であった。つまり、抽象概念を駆使濫用して、事件における具体的な権利を否定する論法・論理である。
法律や規範は体系上、上位となればなるほど、その文言は抽象化する。従って、憲法の文言は必然的に抽象的文言に溢れている。憲法を直接裁判規範として争う事例はほとんどない。個別の紛争では、憲法ではなくすべて具体的な法律によって事件を解決している。「関電疑獄事件」は、公共事業の許認可独占企業―本来は株式会社の形態ではあり得ない-の役員による収賄事件だった。法的論点は、会社法上の「特別背任罪」である。この「特別背任罪」の問題を「法匪」は、どのような論理で闇に葬ったか。それが「抽象概念の濫用」論である。「善管注意義務」という概念は、法人の役員に課せられた典型的な抽象概念である。
従って、法人の役員は、何らかの不祥事を起こせばこの義務違反に問われる恐れがある。しかし、たとえば、関電の役員が万引きをしても、「善管注意義務違反」として責任を問われることはない。刑事犯罪は個人的行為が対象であり、「善管注意義務」は契約上の業務執行に関する、債務不履行だからである。しかし、万引きをした役員は、たとえば就業規則の会社の名誉毀損行為の禁止条項や、取締役選任規定の適格条項に違反するため、当然解任される。しかし、それらはすべて「善管注意義務」とは直接には何の関係もない規範である。従って、それらの規範違反の結果、生じた損害があれば賠償責任を請求される―法的には、過失行為による加害、つまり「不法行為」となる。さらに、役員の万引き行為が会社に損害を与えたかどうかが論点となるが、通常は損害があるとしても具体的に算定することができない。
以上のように、「抽象概念」が具体的にどこまでの範囲なのかは、通常は不明または曖昧である。この曖昧性に乗じて、あたかも正当な法律理論のごとく主張するのが、日本の「法匪」の「お家芸」である。関西電力(株)に巣食う「法匪」は、「ヤメ検」である。
「ヤメ検」のもう1つの「抽象概念の濫用」論による、「似非論理」を糾弾したい。それは、「不適切であるが違法ではない」という「違法性阻却論」である。この迷言はその後、これまた根拠と存在理由が不明な「ヤメ検」の専売特許となる「(ヤメ検)第三者委員会」の定番結論として、多用されることとなる。ただし、第三者委員会もこの結論を出すと予想していたが、今回は別の変化球を繰り出してきた。本質は、「抽象概念の濫用」による真実の隠蔽、と同じだということを国民は理解する必要がある。そこで、「不適切」という抽象概念と「違法」という抽象概念の相関関係を理解して、現代の免罪符ともいえる「ヤメ検」の専売特許「不適切であるが違法でない」という「違法性阻却論」の「似非論理」を弾劾したい。
(つづく)
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