2024年11月25日( 月 )

ファッション元祖への鎮魂歌~さよならレナウン! レナウンをつくった個性豊かな人々(中)

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 民事再生手続に入っていたアパレル大手(株)レナウンは8月21日、紳士服「ダーバン」など主力5ブランドをカジュアル衣料の小泉グループ(株)(大阪市)に売却すると発表した。
 小泉グループへの譲渡は9月30日を予定し、売却額は非公表。レナウン本体は再生がかなわず清算される見通しとなった。レナウンの歴史は、日本のファッションの歴史そのものと言っても過言ではない。レナウンの歴史をエピソードで綴ってみよう。

「皇后さまのデザイナー」田中千代氏とメンズファッションのカリスマ・石津謙介氏

 尾上氏が率いる佐々木営業部は、日本のファッション界の元祖というべき人物を多数生み出した。日本に服飾デザインの礎をつくった田中千代氏はその1人だ。

 デザイナーの田中氏は佐々木営業部の子ども服のデザインを手がけたほか、同社にデザインルームを開設した。
 1947年10月、田中氏が佐々木営業部の主催で、大阪の文楽座でファッションショーを開催した。これが戦後初の日本人によるファッションショーである。

 戦時中に女性の服がモンペに変えられた影響で、終戦直後から洋裁ブームが起こっていたため、田中氏のファッションショーは大反響を呼び、佐々木営業部の戦後のスタートダッシュの起爆剤となった。

 神戸で洋裁学校を経営するデザイナーである田中氏は1952年、当時の皇后(香淳皇后)の衣装の相談役となり、「皇后さまのデザイナー」と呼ばれた。

 また尾上氏は、中国・天津の洋服店で活躍していた石津謙介氏を起用した。石津氏は、レナウンで従事したのち1951年に独立し、「VANブランド」として知られる(株)ヴァンヂャケットを設立した。

 石津氏は、日本の男性ファッション文化に革命をもたらした。石津氏が提唱したブレザーとボタンダウンシャツをベースとした「アイビールック」は、若者を中心に爆発的に人気を呼び、メンズファッション界の「神様」の異名がつけられた。

レナウンと伊勢丹のスタートは、尾上家と小菅家の姻戚関係

 レナウンは、百貨店業界のファッション分野でもっとも有力な新宿本店を抱える伊勢丹との深い因縁にその起点がある。(株)伊勢丹の2代目社長である小菅丹治氏の養女、小菅喜子氏はレナウン社長の尾上清氏と結婚しており、伊勢丹とレナウンは親密な関係があるのだ。

 1923年9月1日に関東大震災が発生して経済混乱が発生すると、関東の問屋は慣習となっていた手形取引を一方的に中止し、百貨店に現金取引を要求し、百貨店と問屋の関係は悪化した。

 佐々木営業部の尾上氏は、こうした経済混乱期でも従来通りの手形取引を続けたため、百貨店からの信頼を勝ち取り、問屋を嫌った百貨店からの注文が殺到した。そして、百貨店が復興するにつれて、佐々木営業部は業績が拡大した。尾上氏が、深い関係でつながるのが伊勢丹の2代目の小菅氏である。

 初代の小菅丹治氏の養子となった2代目小菅丹治氏(旧名・高橋儀平)は、呉服店を神田から新宿に移し、1924年に百貨店を衣替えした。

 伊勢丹が前年の関東大震災で呉服店の店舗を焼失し、転業まで考えたほどのピンチになったときに、融資を引き受けたのが当時の川崎銀行であり、小菅丹治氏はそのときの恩義を忘れなかった。

 1927年、金融恐慌で預金を引き出す客に取り囲まれた川崎銀行に、伊勢丹のトレードマークの赤風呂敷に現金を包んだ会計係がやってきた。
「伊勢丹が預金します」
 2代目社長の小菅丹治氏の指示だった。それを見た顧客が安心して引き揚げたため、川崎銀行は危機を脱したとの逸話が残っている。

 川崎銀行は、戦時中の1943年に三菱銀行に吸収されたが、伊勢丹とのWin-Winの関係は引き継がれた。三菱グループがお中元、お歳暮を伊勢丹から贈るのはそのためだ。

 伊勢丹が百貨店としてスタートした当初、有力問屋は、伊勢丹に見向きもしなかった。百貨店とは、都心部の日本橋にある三越や高島屋で、伊勢丹の新宿は場末でしかなかった。そんな伊勢丹に商品を供給し続けたのが佐々木営業部だった。

 佐々木営業部の尾上設蔵氏の長男、尾上清氏と、伊勢丹の2代目小菅丹治氏の養女、小菅喜子氏が結婚することになる。佐々木営業部と伊勢丹は、濃密な関係で結びついた。

(つづく)

【森村 和男】

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