2024年12月27日( 金 )

【古典に学ぶ・乱世を生き抜く智恵】岩崎弥太郎の言葉に学ぶ〜天の道に背くことなかれ〜

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中島 淳一 氏 三菱財閥の創設者、岩崎弥太郎(1834-85)は土佐の地下浪人の家に生まれる。岩崎家は甲斐武田家の末裔で、家紋も武田菱に由来するという伝承がある。弥太郎は吉田東洋が開いていた少林塾に入塾。後藤象二郎らの知遇を得、東洋が参政となるとこれに仕え、長崎に派遣されるも、丸山花街で遊蕩。資金を使いはたし無断帰国したため罷免され、官職を失う。

 27歳のとき、郷士株を買い戻し、郷士・高芝重春の次女で美女として名高い喜勢と結婚。1867年、土佐藩の開成館長崎商会の主任に命じられる。同年、坂本龍馬が脱藩の罪を許され、亀山社中が海援隊として土佐藩の外郭機関となると、海援隊の活動を支える。

 明治維新後は土佐開成社(後の九十九商会)の事業監督となり、36歳で経営者となる。73年に三菱商会へ社名を変更。74年、台湾出兵の軍事輸送を受託。翌年、政府は有事の際の徴用を条件に三菱への特別助成を交付、船舶18隻が無償供与される。77年、西南戦争が勃発。このときの軍事輸送が国家の信頼を得ることとなり、三菱の大いなる発展の財政的基盤を築く。85年に病死。波瀾万丈の50年の生涯を閉じる。

平々凡々と生きるのは死んでいるのと同じだ

 本当に大切なことは自分の人生を思い通りに生きることである。この世に生を受けたからには己の能力がいかなるものかを知らんがために、あらゆることに果敢に挑む。それが生きるということではないのか。

 いかに不遇な家に生まれたとしても、一生のうちには誰にでも、一度や二度は好機が必ず到来する。ただし、それを捉え損ねると、一生立ち上がることはできないかもしれない。人生はあまりにもはやく過ぎ去るからだ。機会は魚群と同じである。見つけてから、網をつくろうとするようでは到底間に合うはずがない。日々着々と準備を整えよ。されば、千載一遇の機会は向こうから自ずとやってくる。

 子どものころのあの純真な夢とほとばしる活力、胸がはりさけそうに熱く渦巻く野望の炎を、大人になった己のなかに見出すとき、成功への道は開かれたのも同然だ。信念は成功の秘訣であり、1人よがりの妄念は失敗の源泉であることを肝に銘ぜよ。大きなことは緻密な小さな行動の連続と蓄積によって生まれるのだ。

天の道に背くことなかれ

 変化、成長、進歩は生命本来の天の理法である。経営事業は国家的観念をもってあたるべし。断じて投機的な事業を企ててはならない。いかなるときも奉公至誠の念から離れてはならない。事業は必ず成功を期し得るものを選び、いったん始めたからには、予期せぬ苦難、他人の中傷、障壁にもめげることなく邁進し、強靭な意志を貫き、大成せねばならない。

 会社の利益を社長の一身に帰すのであれば、会社の損失もまた社長の一身に帰すべし。部下を優遇し、事業の利益はなるべく多く彼らに分け与えよ。およそ事業をするには、まず人に与えることが肝要である。それは必ず将来大きな利益をもたらす。創業は大胆に、守成は小心たれ。

 無駄をなくすというのは口に出していうのは容易でも、実践するのは難しい。酒樽の栓が抜けたときに、誰しも慌てふためき、閉め直す。しかし、樽のなかの酒を保とうとするには、栓よりも底漏れの方を大事と見なければならない。健康と同じで、無病のときにこそ油断は禁物なのだ。何よりも、よく人材技能を鑑別し、すべからく適材適所に配置するのも大事だが、社員1人ひとりの自信を育成し、成功するための能力を啓発することを怠ってはならない。

劇団エーテル主宰・画家
中島 淳一

TEL:092-883-8249
FAX:092-882-3943
URL:http://junichi-n.jp/

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