元福岡市長の故・山崎広太郎氏追悼(3)50年支援してきた高太会長の高尾平八郎氏
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福岡市長を2期務めた山崎広太郎氏(79)を追悼する言葉が各方面から寄せられている。山崎氏の政治家としての評価をまとめたい。今回は28歳の時から故人に惹かれて応援し続けてきた(株)高太会長の高尾平八郎氏による追悼の言葉を紹介する。
140,150万人の都市づくりを展望した先見性のある政治家
高尾氏は、広太郎氏が福岡市議会議員に初当選した28歳のときから応援してきた。高尾氏の談をまとめてみる。
(1)まずは庶民的で正直、ざっくばらんな広太郎氏の人柄にほれ込んだ。同時に政治家としての先見性には感服した。
(2)広太郎氏が市会議員に当選した1970~74年当時は、平尾から南の高宮、塩原、大橋まで、都市機能としてのインフラはゼロであった。それだけ福岡の都市としての範囲が狭かったということである。1972年に政令都市になった福岡の人口は当時まだ80万人台であった。
広太郎氏が塩原・高宮の区画整理事業に着手したおかげで、居住地区が近代化され、ショッピング地区や職場との隣接整備などが進んだ。大橋駅周辺を高架に変えたのも広太郎氏の功績である。本人は長住地区に居住を構えており、「長住祭り」の開催を先導した。残念であったのは、長住地区から南西地区にかけての交通整備として、地下鉄を開通できなかったことである。しかし、地下鉄3号線(地下鉄七隅線)の車両小型化の企画は広太郎氏が提案したものである。地下鉄のコスト削減にも気配りできるほどの経営感覚をもっていた。それゆえに地下鉄3号線の赤字も最小限に食い止めることが可能となった。
(3)野球球団の西鉄ライオンズが福岡から去り、しばらく寂しい時期が続いた。ダイエーが南海ホークスを買収した時、広太郎氏はダイエーオーナーの中内功氏にすかさず面会を求めた。「ぜひ、福岡へホークスを誘致してください」と直接、談判を行った。ここ一番という時の行動力はパワフルであった。
オリンピック誘致には、一敗地に塗れた。東京に敗北したが、故人・広太郎氏は「地方活性化自立論」の立場を堅持しており、持論を行動に移しただけなのである。見かけによらず強い信念の持ち主であることを垣間見る体験をしばしばさせられた。広太郎氏と知り合って以降、これだけ人を惹きつける政治家にお目にかかったことがない。本当に悔しい。
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