市民ホール&スケボーパークで変わるか?北天神“裏”エリア(前)
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ようこそ市民ホール さよなら市民会館
3月28日、福岡の新たな文化振興拠点「福岡市民ホール」が華々しく開館を迎えた。
福岡市民ホールは、「福岡市民会館」(3月23日閉館)の後継施設に位置付けられているもので、コンサートをはじめとしたさまざまな演目に対応可能な約2,000席の大ホールのほか、演劇などの舞台公演や市民の文化活動の発表利用にも対応可能な約800席の中ホール、さまざまな用途で活用可能な自由度が高い約150席の小ホールなどを備え、福岡の新たな文化振興の拠点としての役割を担うことが期待されている。こけら落とし公演では、福岡市ゆかりの歌姫「MISIA」がソウルフルな歌声を披露。ほかにも新たな市民ホールの誕生を祝うため、各種コンサートやリサイタル、演劇、ミュージカル、落語など、さまざまなイベントが目白押しとなっている。
同ホールの整備にあたっては、2012年3月に福岡市が「福岡市拠点文化施設基本構想」を策定・公表し、老朽化が進んでいた市民会館の在り方の検討を開始したのが始まり。同基本構想および市民から寄せられたパブリックコメントなどに基づき、16年6月に「福岡市拠点文化施設基本計画」を策定・公表し、須崎公園の南端部分に新たな拠点文化施設(市民ホール)を整備するとともに、市民会館跡地を公園へと整備する方針を示した。その後、「福岡市拠点文化施設整備及び須崎公園再整備事業」の公募を19年4月から実施。同再整備事業は、民間事業者が施設の建設を行い、施設完成直後に福岡市へと所有権を移転したうえで、民間事業者が維持管理および運営を行うPFI-BTO方式で進められており、20年1月に日本管財(株)九州本部を代表企業とする企業グループが落札者に決定した。同企業グループは代表の日本管財のほか、戸田建設(株)九州支店、(株)JTBコミュニケーションデザイン、九州林産(株)、占部建設(株)、照栄建設(株)で構成され、さらに協力企業として(株)梓設計 九州支社、(株)俊設計、(株)戸田芳樹風景計画 東京本部、(株)サン・ライフ、古賀緑地建設(株)が参加している。20年6月には、日本管財を代表とするグループによるSPC「(株)福岡カルチャーベース」が福岡市と事業契約を締結して、同再整備事業が本格的にスタート。20年9月には、福岡カルチャーベースが福岡市拠点文化施設(市民ホール)および須崎公園の指定管理者としての指定を受けた。
そして21年8月に福岡市拠点文化施設(市民ホール)の整備が着工。当初は24年3月の開館を予定していたが、新たな地球温暖化対策や感染症対策の実施などにより1年延期となった。そして24年3月には施設の呼称が「福岡市民ホール」に決定し、今回の開館へと至っている。
一方で、3月23日をもって閉館となった福岡市民会館は、学術文化の向上など市民福祉の増進を図ることを目的として1963年10月に開館した施設で、開館当時のまだ文化施設がほとんど設置されていない時代において、西日本一の文化都市を目指して“文化の殿堂”となるべく整備されたもの。1,770席の大ホールと、354席の小ホールの2つのホールを備え、市民自らの文化活動・発表の場としてだけでなく、数多くのポップス系音楽、ミュージカル、演劇などの興行が行われる鑑賞の場として、多くの市民に親しまれてきた。だが、築60年以上が経過して施設の老朽化が進んでいたほか、時代に即した公演への対応が難しい舞台設備や、バリアフリー化への対応が遅れているエレベーターやホール客席のスロープ、さらに遮音性能が低いという構造的な課題など、さまざまな機能劣化が大きな課題となっていた。そのため、今日求められている文化政策の在り方や福岡市における文化環境の現状と課題を踏まえ、時代にふさわしい新たな拠点文化施設として再整備する必要があるとして、前述したように後継施設となる福岡市民ホールの整備が進行。今回、市民ホールが完成および開館となったことで、市民会館はその役割を終えることになった。市民会館跡地は今後、須崎公園の一角として水辺に開かれた公園へと整備される計画となっており、新たな公園の開園は27年3月を予定している。
市民ホール開館と市民会館閉館を間近に控えた3月上旬、市民ホール近くの歩道には、劇団「ギンギラ太陽's」による市民会館と市民ホールそれぞれを擬人化したかぶりモノ姿の垂れ幕が吊り下げられていた。市民会館のほうには「きらめく思い出を胸に」、市民ホールのほうには「舞台は続く 夢を描いて」という言葉がそれぞれ綴られており、文化振興拠点としてのレガシーが市民会館から市民ホールに継承されることを表現しているようだ。
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福岡市民ホールという新たな文化振興拠点が開館したことで、周辺一帯には一躍注目が集まっている。だが、市民ホールの立地する天神5丁目を中心に、南側の天神4丁目と、北側の那の津1丁目にまたがるエリアはもともと、華やかに賑わっているイメージの天神のメインエリアと比べると、どこか陰気で暗い雰囲気が漂う、どちらかというと裏通り的なイメージの強いエリアだ。今回、この天神4・5丁目と那の津1丁目を仮に「北天神“裏”エリア」と称して、エリア内の歴史や特性、開発動向などを追ってみたい。
砲台場・監獄・捕虜収容所 地名にも“裏”の文字が
二級河川・那珂川の河口に位置する同エリアは、今でも博多湾に面しているが、かつての海岸線はもう少し陸側にあったとされている。江戸期や明治期の古地図などを見ると、福岡市民ホールの南側を走る那の津通りあたりがちょうど海岸線だったようで、天神4・5丁目などは少なくとも江戸期ごろには陸地となっていたようだ。
勝立寺 たとえば今も天神4丁目にある「勝立寺(しょうりゅうじ)」は、1603(慶長8)年に京都・妙覚寺の僧・唯心院日忠(ゆいしんいんにっちゅう)が布教のために訪れた博多・妙典寺において、キリスト教のイルマン(修道士)らと宗教に関する問答を行い勝利したことで、福岡藩主・黒田長政よりキリスト教会が保有していた土地を与えられ、寺を建てたのが創建とされている。勝立寺の名前は、1777(安永6)年の「福岡御城下絵図」にも記されており、その周辺は福岡藩の武家屋敷群だったほか、勝立寺のすぐ脇には「獄屋」(罪人を拘置する監獄)も置かれていたようだ。
幕末期になると、現在の須崎公園などの海岸部には、黒船の来襲を防ぐため台場(砲台場)が築かれ、12貫目砲など15門の大砲が据え付けられた。幸いにして福岡に黒船の来襲はなく、これらの大砲が本来の役割を発揮することはなかったようだが、明治期には午砲として利用され、市民に時刻を知らせていたとされる。ただ、発射音が大きかったことで、付近住民の陳情によって、やがて台場は西公園下に移されたようだ。なお、須崎公園の北側に残る石垣は、かつての台場の名残である。
須崎公園北側の石垣が昔の台場跡 その台場の跡地には、県内赤十字活動の拠点として「日本赤十字社福岡支部」の洋館が建てられたほか、旧台場前の広場には獄舎が建てられた。獄舎は「福岡監獄署」「福岡県監獄署」「福岡監獄」などの改称を経た後、1913(大正2)年に早良郡藤崎(現・早良区藤崎)に移転したが、その後すぐに、第一次大戦中のドイツ人捕虜を収容する「福岡俘虜収容所」が設けられたようだ。
かように、近代には早くも「砲台場」「監獄」「捕虜収容所」など、どちらかといえば“裏”のイメージの強い施設が立地していた同エリアだが、なかでも今の天神5丁目あたりの当時の地名はその名も「須崎裏町」。この“裏”は、天神4丁目あたりの当時の地名である「須崎土手町」から見て裏側という位置関係からの命名だというが、エリアの性格を表したもののようにも思えてならない。
路面電車が走り百貨店・博覧会で賑わう
なお、“裏”のイメージの強い施設を先に紹介したが、もちろん同エリアにあるのは、そうした施設ばかりではない。
福岡税務署 たとえば前出の日本赤十字社福岡支部のほかにも、1898(明治31)年には「福岡県水産試験場」ができたほか、1923(大正12)年には我が国最初の公立女専である「福岡県立女子専門学校」(文科59名、家政科54名/福岡女子大学の前身)が開校。29(昭和4)年には福岡で初となるエスカレーターが設置された「松屋百貨店」も開業し、「玉屋呉服店」(23年10月開業/後の福岡玉屋)、「岩田屋」(36年10月開業)とともに三大百貨店と呼ばれるほど多くの買い物客で繁盛していたようだ。また、昭和初期には勝立寺のすぐ近くに税務署も設置されたようで、こうしたさまざまな施設が立地していく一方で、エリア内には商店、病院、印刷所、旅館、銀行支店などが軒を連ねていった。
また、11(明治44)年に博多電気軌道(株)(西日本鉄道(株)の前身の1つ)の路面電車が福岡市内を走ると、現在の県道602号を通るかたちで鉄軌道が整備され、今の須崎公園の南側の場所に、その名も「須崎裏」停留所が設置されたほか、松屋百貨店の近くには「橋口町」停留所が設置された。今の天神北交差点付近や天神橋口交差点付近の緩やかなカーブは、かつて路面電車が走っていた名残のようだ。
さらに、20(大正9)年に開催された「福岡工業博覧会」では、須崎裏の福岡監獄跡地が第一会場となり、化学工業館や第一・第二工業館、機械館、電気館、迎賓館、即売館、演舞館などの建物が建てられ、第二会場(福岡築港埋立地)と合わせて62日間の会期中に約91万人と多くの来場者を集めたとされている。また、福岡監獄跡地は須崎グラウンドと名を変えて市民の運動場として親しまれたほか、福岡工業博覧会のほかにも福岡仮設国技館が設けられて大相撲九州准本場所が開催されたり、ドイツ・ハーゲンベックサーカスが開催されたりと、さまざまな用途で使われたようだ。
こうしてやや“裏”のイメージを纏いながらも、かつての同エリアは路面電車の通る大通り沿いには百貨店が屹立し、各種商店や事務所などが入り交じって立地する、相応に活気や賑わいにあふれていた場所だったようだ。だが、そうした様相も、軍靴の足音とともに次第に変貌。最終的には博多や天神などの市街地を標的とした大空襲により、同エリアも大部分が焼失する事態となった。
公園&会館&競艇場完成 消えゆく2つの鉄軌道
終戦後、45年10月に博多港が引揚援護港に指定されると、中央ふ頭が引揚者の上陸場所に。すると、すぐ近隣に所在する須崎グラウンドには応急簡易住宅やバラック小屋などが建てられ、大陸からの引揚者や戦災者らの居住地となっていた。その後、市が隣接する場所で市営住宅の開発などを進めるとともに、簡易住宅が撤去され、同地における立ち退きが完了。そして戦災復興記念事業の一環として、65年から4カ年計画で須崎公園の整備が着工した。
福岡県立美術館 須崎公園の整備と並行して、公園の隣接地では63年10月に劇場兼ホールの「福岡市民会館」が開館し、64年11月には図書館と美術館を併設した「福岡県文化会館」が開館。そして須崎公園内では、67年に500席の観覧席を備えた野外音楽堂が完成し、68年7月に公園の中心部に大噴水が完成したことで、須崎公園全体の開園を迎えた。なお、福岡県文化会館は後に「福岡県立図書館」を分離して全面改装し、85年11月に「福岡県立美術館」となっている。
こうして須崎公園や市民会館の整備が進む一方で、海岸部の那の津1丁目では、別の開発・整備も進んでいた。まず53年9月には「福岡競艇場」が開場し、初開催となった。同競艇場は天神から徒歩10分程度に位置する都市型競艇場の代表格として知られ、那珂川の河口部の海面を競走水面としており、水中はそのまま博多湾とつながっている。そのため、満潮時には海水と淡水がぶつかり合い複雑なうねりが発生することで全国屈指の難水面としても知られるほか、レース中に水面に跳ねた魚がボートや選手と衝突する事故もしばしば発生するという特性を有している。同競艇場においては、66年には第一スタンドが、70年には特別観覧席および第二スタンドが増設されるなどして機能を拡張。今では「ボートレース福岡」の通称で知られる、エリアのランドマークの1つとなっている。
競艇場が開場した翌54年6月には、貨物鉄道線である「博多臨港線」の博多港駅(東区東浜町1丁目、現在のゆめタウン博多付近)~福岡港駅(中央区長浜2丁目)間が開業。同路線はちょうど競艇場の南側を通るかたちで線路が敷かれ、貨物列車が運行していた。だが、国鉄における貨物輸送の衰退にともない、博多臨港線の博多港駅~福岡港駅間は85年3月に廃止。ただし、福岡港駅は博多港駅に統合されたことで、博多港駅~福岡港駅間は博多港駅の構内扱いというかたちで、96年3月まで路線が存続していたようだ。なお、今回取り上げるエリア内に博多臨港線の常設の駅はなかったようだが、89年8月3日~9日の1週間の期間限定で、福岡競艇場および「アジア太平洋博覧会」への来客を対象として、競艇場付近に臨時駅の「福岡ボート前駅」を設置。香椎駅~博多港駅間のJR貨物の路線をJR九州が第二種鉄道事業者として借り受け、臨時の旅客列車を運行した記録がある。
一方、戦前からエリア内を走っていた博多電気軌道の路面電車は、九州電気軌道(株)や九州鉄道(株)などの複数の鉄道事業者との吸収合併および商号変更などを経て42年9月に西日本鉄道(以下、西鉄)となり、「西鉄福岡市内線」となった。エリア内を走る循環線では、戦後になるとかつての「須崎裏」停留所は「市民会館前」電停となり、天神北交差点付近には「那の津口」電停が設置。以前と変わらず、市民の足としての利用が続いていた。だが、昭和30年代以降になると、モータリゼーションが進行し、路面電車の利用者が減少。また、自動車の路面電車の軌道内通行が解禁されたことにより、電車としての定時性が低下するとともに、路面電車自体が都心部の渋滞の原因となっていった。そうした事情により、福岡市では路面電車に代わって地下鉄を整備するとともに、西鉄は路面電車を廃止してバス路線を整備する方針を決定。そして西鉄福岡市内線は、73年1月の吉塚線廃止を皮切りに、貫通線、城南線、呉服町線が次々と廃止されていき、79年2月の循環線および貝塚線の廃止をもって、全線廃止となった。
こうしてエリア内を走っていた2つの鉄軌道は、時代の流れとともに消滅。その軌道跡は現在、道路となっているほか、博多臨港線軌道跡の一部はボートレース福岡の駐車場として活用され、後述する新たな開発の用地となっている。
(つづく)
【坂田憲治】
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