2024年12月27日( 金 )

【古典に学ぶ・乱世を生き抜く智恵】山岡鉄舟の言葉に学ぶ~〜無刀とは心のほかに刀がないこと〜

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中島 淳一 氏 勝海舟、高橋泥舟らとともに江戸を戦火から救った「幕末の三舟」の1人、山岡鉄舟(1836~1888)は、蔵奉行の四男として江戸本所(墨田区亀沢)に生まれるも、父が飛騨郡代となり、幼少期を飛騨高山で過ごす。

 9歳から直心影流剣術を学び、岩佐一亭に書を学び、井上清虎からは北辰一刀流剣術を学ぶ。16歳のとき、江戸へ帰る。19歳、千葉周作に剣術を学ぶ。また、山岡静山に忍心流槍術を学ぶも静山が急死。静山の弟・高橋泥舟らに望まれて、静山の妹と結婚し山岡家の婿養子となる。26歳、江戸幕府により浪士組が結成され、取締役となる。

 1968年、32歳の鉄舟は江戸無血開城を決した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、西郷と面会。西郷は、江戸の民と主君の命を守るため、死を覚悟して単身敵陣に乗り込んだ鉄舟に心を動かされ、慶喜の身の安全を保証。江戸無血開城への道が開かれる。西郷は後に「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられぬ」と鉄舟を賞賛。1872年、西郷の依頼により、鉄舟は10年間の約束で侍従として明治天皇に仕える。50歳、功績により子爵に叙される。1888年7月19日、皇居に向かって結跏趺坐のまま絶命。死因は胃癌。身長188cm、体重105kgの鍛え抜かれた鋼の肉体に宿った稀有な魂は見事な生涯を終え天に帰る。

国を治めるものはまず自分自身を治めよ。

 誠をもって私心を殺し万機に接する。これが天下無敵の武士道である。自分を治め、親子兄弟一族の治めがついて、さしつかえがないというに至って初めてこの秘法はたちまち国家の一大事にも応じることができるようになる。剣法は武士道の命である。なぜ剣法を学ぶのか。ひとえに心胆練磨にある。肉体を究極まで追い込むことにより、天地と同根一体の理をはたし、無の境地に到達せんがためである。大凡人が、たとえ大事変に接しても確固たる信念を貫き、決して心胆を動かさぬようになるためには鍛練以外にはない。

 人としてこの世に生まれてきたからには誰であろうと、人の本分を尽くさねばならないのが道理であろう。人間である以上はほかの禽獣とは異なる人間らしい道を歩まねばならない。必死に働き、財産を子孫に遺す。子孫は必ずしもそれを守らず、瞬時にして使いはたすやも知れぬ。学問に打ち込み膨大な書籍を書庫に積んで子孫に遺す。子孫は必ずしも読むとは限らない。子孫の長久を願うのであれば、陰徳を積む以外にはない。それが永遠不滅の道である。

無刀とは心のほかに刀がないこと

 この世は常に諸行無常のならいにて、因果は車の輪のごとく密接不離のものである。故に敵と相対するときは刀ではなく、心を以って相手の心を打つ、これを無刀というのである。業の深い人間がこの世を処するには無刀の精神なくして大道を履行することはできない。自然は偉大なる教師である。自然を眺めて学び、何事も自然に即して考える。宇宙と己はそもそも一体であるゆえに当然の帰結として、人々はみな平等である。天地同根、万物一体の道理を悟ることで、生死の垣根を越え、ひたすら与えられた責務を果し、正しき手法で衆生済度の為に尽くす。万物はすべからく天地を初め首尾本末がある。十分に研鑽し、道理を理解すれば誰しも迷霧の誤りを開くことができるものだ。

 武士道とは神道でも儒教でも仏教でもない、この3つが融和してできた思想であり、人を傷つけることなく義を貫く天下無双の刃である。

劇団エーテル主宰・画家
中島 淳一

TEL:092-883-8249
FAX:092-882-3943
URL:http://junichi-n.jp/

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