2024年07月16日( 火 )

百貨店解体新書(4)なぜ堤清二は沈黙したか 許永中の憤怒(前)

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 西武百貨店を核に、西友、パルコ、ファミリーマート、良品計画、などを擁するセゾングループがなぜ、あっけなく崩壊したのか、永年の疑問だった。グループの総帥、堤清二が唐突に引退したことが崩壊の引き金になった。堤の引退はイトマン事件が一因と言われたが、真相は不明のまま。「戦後最大のフィクサー」と呼ばれた男、許永中の自伝『海峡に立つ・泥と血の我が半生』(小学館、税別定価1,760円)を読んで、その疑問が氷解した。

「戦後最大の経済事件」と呼ばれたイトマン事件

東京プリンスホテル イメージ    「戦後最大の経済事件」と呼ばれたイトマン事件は1989年11月、首都高速を走行中のイトマン社長、河村良彦にかかってきた一本の自動車電話から始まる。電話の主は黒川園子。“住友の天皇”と称される住友銀行会長、磯田一郎の長女。(以下・敬称略)

 セゾングループの堤清二は、東京プリンスホテルの地階に高級美術品・宝飾品の販売店ピサをつくった。磯田が堤に頼み込んで、園子はピサの契約社員として入社した。その園子の相談に乗ったのが、“磯田の番頭”を自任していた河村だ。

「ピサが買い付けを予定しているロートレック・コレクションの絵画類があるんです。イトマンさんに買っていただけませんか。」

 黒川園子からの一本の電話が、闇の仕掛け人たちがイトマン、住友銀行に駆け上がっていく、きっかけになった。

 河村から話を持ち込まれた伊藤寿永光は、許永中につないだ。許はピサからイトマンを介して、ロートレック・コレクションを買い入れることを引き受けた。

 許永中が計画している美術館用ということで、イトマンはピサから4回にわたって絵画128億円を買った。イトマンは許永中が絡む会社から、絵画・骨董品676億円を買い受けた。これら美術品は西武百貨店・塚新店の鑑定評価書の偽造が行われ、市価の2~3倍の法外な値段だった。これらが不良債権となり、イトマンが破綻する一因となった。

 これら絵画の取引の実態はどうなっていたのか。当時から大きな謎だった。

 堤清二は、詩人・小説家・辻井喬として自伝的作品が多いが、ついぞ、書かれなかったテーマが、セゾングループのピサが発火点となったイトマン事件との関わりだ。堤はピサ事件について語ることはなかった。墓場までもっていったのだろう。

堤清二は京都銀行のオーナーの座に色気をみせた

 許永中は、なぜ、セゾングループを標的にしたのか。自伝を読んで合点がいった。堤清二の“裏切り”についての憤怒がほとばしっている。そんなことがあったのか、と初めて知った。

 イトマン事件の前、許永中は京都にいた。京都新聞社と民放テレビ局KBS京都のお家騒動に介入した。89年6月、超大物フィクサーとして知られる福本邦雄がKBS京都の社長に就いた。福本は、竹下登首相の女婿の内藤武宣を常務に就任させた。

 88年7月、京都銀行株が、“マチ金の帝王”と呼ばれたアイチなどに買い占められた。福本は買い戻しに動く。福本は、許永中に買い戻しを頼む。

 白眉は、セゾンの堤清二が京都銀行株を買おうとしたこと。福本の事務所で、許永中は西武百貨店社長の山崎光雄を紹介された。福本は、こう切り出した。

 「堤と僕とは学生時代からの仲間でね。読売の渡邉恒雄も、日本テレビの氏家齊一郎もみんなそうなんだ」。福本邦雄は、戦前の日本共産党の理論的指導者だった福本和夫の長男。戦後、福本、堤、渡邉、氏家は東大の共産党の学生細胞の同志だ。

〈「堤清二がどうしても京都銀行の主になりたいというんだ」

「銀行の頭取にですか?」
「いや、銀行の経営者になりたくないらしい。本人は文学者気取りだから、金貸しを卑下していてな。まぁ、君臨すれども統治せず。大株主になって、オーナーとしての立場になりたいということだよ」

 福本さんの話が続く。

「世間では清二のことを好き勝手にいうが、彼は純粋な文学者なんだ。正直、事業家には向いていないんだ」
「京都銀行のオーナーになれたら、百貨店などの現場から手を引いて、物書きに専念するということですか?」
「まぁ、そういうことかな。(中略)」

「わかりました。早速京都銀行のトップに話をします。天下の堤さんがオーナーになるのをイヤがることはないと思います」〉

 許永中は、西武百貨店の山崎社長を窓口にして、京都銀行株式の大株主に堤を立てるという話を引き受けた。話はトントン拍子でまとまった。

(つづく)

【森村 和男】

※本記事は、筆者が過去に執筆したNet IB-News記事に加筆修正を加えて再掲載したものです。

(後)

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