2024年11月22日( 金 )

総理待望論浮上の泉前明石市長、野党の旗印になるのか!?(3)

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 6月30日付のNet IB記事「総理待望論が出始めた泉前明石市長に立民代表がラブコール」で、これまで夢物語のように語られていた「泉房穂・総理大臣待望論」が、野党第一党の泉健太代表からの出馬要請で現実味を帯びてきたことを記事にした。
 その中で筆者は、「秋口にも予想されている次期総選挙で、泉前市長が『明石方式の国政反映(国民負担増なき子ども予算倍増)』を旗印に出馬、野党統一候補になれば、政権交代の実現可能性は一気に高まる」と述べたが、筆者がそのように考える理由となる講演を泉氏はそれに先立って行っていた。
 本記事では、6月7日の長妻昭・政調会長主催の時局講演会に招かれた際に泉氏が語った政治への想いを詳細にお伝えする。

 前回記事で泉氏は、まず明石市での成功事例を示したうえで、他の自治体や国政でも同じような政策転換ができると畳み掛けた。これは泉氏の常套論法である。と同時に大の選挙好きでもある氏は、初当選の体験を基に「選挙で政治は変えられる」とも続けて訴えた。

市長初当選時からの選挙への想い

「こんなキャラの濃い、こんな口が悪い私ですけれども、おかげさまで本当に明石市の市民に応援を続けてもらいました。私が12年前、市長選に立候補したときはマスコミからバカにされたものです。12年前の選挙では、実はそのときにはすでに『もうほぼ決まった』といわれる候補者がいまして、当時の兵庫県の知事さんの側近が全政党に担がれる形でした。私は当時かつての民主党にいましたけれども、民主党も自民党もほかの党もみんなその方を応援して、各種団体も全部その方を応援して、もう勝負ありの状況でした。そこに私が手を上げました。

 記者会見でマスコミからこのようなことを聞かれました。『相手候補は盤石です。ほぼすべての政党、ほぼすべての業界団体が応援している強い候補です。ところで、あなたの支持団体は何ですか』と聞かれました。私は即答しました。『私の支持団体は市民です。以上。何か問題ありますか』。

 笑われました。そして、こう言われました。『そんなので勝てますか』。即答しました。『勝ちます。私が勝つことが明石の街のためだから』。

 どっちが多いのですか。有力者の一票。そうでない市民の一票。有名な金持ちも一票。そうでない人も一票なのです。市民を信じて、市民の方を向いた政治をやれば、市民がちゃんと選挙で応えてくれる。私はそういう考えの持ち主です。12年前の選挙、全国の統一地方選挙でしたが、実は私、人口30万人の明石市でそのときの得票数、一騎打ちで69票差。わずか69票差で私が市長に選ばれました。そんな僅差でも市長にさせていただきました。

 その後、私もいろいろなかたちで自業自得な点も含めて不祥事的なこともありましたけれど、市民からは一貫して応援をいただき、12年間、明石市長をさせていただきました。

 そして今回、4月の(統一地方)選挙、明石市もおかげさまで私自身が公募をして、『明石の次の市長、そして明石の市会議員に出ませんか』というかたちで公募をしたところ、70名もの人が『立候補したい』と手を上げていただき、そのなかから選りすぐりの候補者を選んだ結果、全員圧勝しました。市長の後継候補は、相手候補は自民党と公明党がタッグを組んだ候補者でしたが、選挙結果はダブルスコア。自公候補に2倍以上の大差をつけての当選となりました。

 市会議員も全員当選しました。市会議員は2,000票で当選するところを、私が推した候補者は3、4歳の子育て真っ最中のお母さんとか31歳の若者とかでしたが、いずれも1万2,000票、1万票、8,000票と必要な得票の5、6倍とって圧勝しました。つまり明石市民が完全に変わったのです。いわゆる古い政治ではなく、市民の方を向いた政治を自分たちがつくってきたという誇りができたということだと思います」。

 明石市が優しい街に変わると同時に、明石市民も選挙も変わったと強調した泉氏は、続けて“国政変革”への思いも語り始めた。

「私は明石でやることは自分なりにやった。これを全国に広げていきたい。明石でできたことはほかの街でもできます。ましていわんや、国でできないわけがない。国は金持ちです。お金も刷れるし国債も発行できる。問題はそのお金がどこに行っているのか、それが国民の方に行っているのか、そうでないのかがポイントなのです。

 その点で日本の政治はこれからが変わり時です。まさに変えるにちょうどいいタイミングです。では、誰が変えていけるかというと、それはまさに私たちなのです。

 私は選挙のとき、基本的に『皆様』とは言いません。私は『私たちの街、明石』と言います。私は私の仲間の1人です。『市民と一緒につくる』というよりも『市民の1人』です。市民の1人が市役所に1人で乗り込んで市民のための政治を行ったというのが、明石市で私がやったことなのです。

 基本的に政治は誰がやるのかというと、選挙で選ばれた政治家だけではありません。私たち1人ひとりがまさに主人公として政治を変えていくことができます。ただ残念ながら、これまでの日本においては、あたかもそれが不可能であるかようなあきらめの空気がありました。

 でも、そうではありません。しかもあきらめるわけにいきません。これからのことを考えたときに、今のままの日本の政治でいいとは到底思えません。大人として子供たちに対してそれは申し訳ないことです。『こんな冷たい政治をこのまま残すわけにはいかない』というのが私の本音であります。

長妻昭・政調会長主催 時局講演会

日本は世界で最も子どもにお金を使わない国である

 私は今年還暦で60歳になるのですけれども、私は弁護士でもあるので法学部出身と勘違いされますが違います。40年前の大学時代、私は教育学部で教育哲学を勉強していました。そのころに書いたレポートは今も家にありますが、そこで書いたことは、『世界のなかで日本ほど子どもや教育にお金を使っていない国はない』ということでした。『子どもを応援しない日本に未来はない』と40年前に書きました。その時も私は愕然としました。なぜ日本だけがこれほど子どもにお金を使わないのか。私がそのとき思ったのは、日本というのは一種特殊な事情があって、ムラ社会とか農業が中心だったこともあり大家族などのコミュニテイに分かれていたので、子どもというのは地域が責任をもつ、そして家族が責任をもつという世帯主義とか大家族主義が強いために、政治行政がとくに関わらなくても大丈夫という社会であったということです。

 ところが今や違います。昔のように農業や漁業で食べることができる時代ではありません。そして核家族化が進み、大家族でもありません。子どもを育てるのを家族任せにして、子どもが幸せになれる時代ではないのです。それを放置しているから子どもの虐待とか子どもの貧困というものが続いているわけです。まさに何が問題かというと、親のせいではないのです。政治がしっかりとほかの国と同じように積極的に子どもを応援しなかったことが今の日本が抱えている問題、少子化につながっていると私は思っています。

 それでは、どうすればいいのか。分かりやすい話です。他の国並みにすぐやることです。しかし、今ほかの国並みにしただけでは足りない。これまで何10年もやってこなかったわけですから、他の国以上にやらないといけないのです。簡単にいうと、子ども予算を倍増し、その後、3倍増ぐらいにしていけば、日本も変わります。もっと分かりやすくいえば、もう1人2人子どもをつくっても、ちゃんと大学まで行かせることができると思えるほどまで支援するということです。今の国の議論を聞いていると寂しい限りです。その程度では足りないのです。もう1人子どもをつくっても何とかうちの収入で何とかやっていける。子どもの夢を叶えられる。そういった思いがないと、なかなか結婚すら躊躇する。子どもを産むことすら躊躇する。ましてや2人目3人目は躊躇するのが通常の親心です。

 そういったなかでまさに政治が『大丈夫ですよ。ちゃんと政治があなたを応援します。あなたのお子さんを応援します』というくらいのメッセージが必要なのです。

 その点、手前味噌になりますが、明石ではよく言われます。『明石だから2人目が産めました』『明石だからもう1人と思いました』とよく市民から言われるのです。ポイントは安心感です。大丈夫というメッセージです。『明石だったら何とかなる。明石だったら何とかしてくれる』と多くの市民が思っているから明石は出生率が上がってきている。そして子どもの笑顔が広がって来ました。そういった街をつくることはできるのです。決して国民や子育て層に負担ばかり課すような政治ではなくて、『あなたのお子さんはみんなのお子さん、社会のお子さんです。政治が責任をもちます』というメッセージを出せれば、恐らく日本も変わってくると私は期待をしています。

 改めて皆さまにお伝え申し上げたいのは、政治を変えるのは他の誰かではなく、まさに今聞いておられる1人ひとりなのだということです。

 私は実は早い段階からツイッタ―などを使いたかったのですが、あえて使いませんでした。こんなキャラクターですから、すぐに炎上するのが分かっていました。市長になったのが2011年。いろいろなことを発信したい気持ちはありましたが、ぐっと我慢して、まずは明石で成功事例をつくる。そしてもちこたえるだけの数字を出すということでした。おかげさまでいろいろな批判を浴びていますが、そうは言っても明石市はまさに市民が応援団。いわれなきことまで含めていろいろな批判を浴びても市民が守ってくれる街に変わりました。そういった状況のなかで私はツイッタ―を始め、『明石でできることはほかの街でもできる。明石でできることはましてや国でもできる』と発信を始めたところです。

(つづく)

【ジャーナリスト/横田 一】

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