55年連れ添いの伴侶の死から何を学ぶか(3)体重の減少との闘いの戦い
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運転免許証返上
悦子の老化進行は車の運転にも現れ始めた。駐車場へ入る際に車の側面を傷つけることが散見されるようになった。2021年5月ころ、福岡空港から高速道路に入る際に、走行していた車と側面衝突をした。「危ない」と叫んでハンドルを切り最悪の事故はどうにか防げたものの、この段階で「そろそろ免許証の返納が必要か」と感じた。
確信したのは昨年3月の事故であった。三叉路の見通しの良い交差点で彼女は左へ曲がろうとしていたところ、左から直進してきた車に気づかなかった。同車が衝突を避けるよう運転してくれおかげで、接触程度で済んだ。相手は同乗者を入院させた。悦子はさすがにこの事故を受けて「運転はもう無理」と決断して免許証を返納した。このように、車の運転からある程度、症状の進行がうかがい知れる。
病院で激やせ
悦子は本当に几帳面な人柄であった。22年4月から23年1月まで体重の変化を記録していた。始めたきっかけはコロナ感染による入院だった。22年2月に筆者が感染し、それから悦子も感染した。彼女は高熱を発し、39度を超えたために入院させた。僅か9日間の入院であったが、体重が38kgまで落ちた。入院前は43kgであったから5kg減である。病院の食事は、(2)で述べた「50年経ってもALSの治療方法はなにも進展していない」のと同様に、融通の利かないメニューである。「死への道を歩かせる病院食事」と表現するのがぴったりであろう。コロナ感染が悦子の病状進行に拍車をかけたといえる。もっともその張本人は先に感染した筆者であるが・・・。
昨年夏場から食欲不振の傾向が現れる
思えば22年夏場から食欲が細くなっていた。夕食の際にわかったのであるが、まともに食べていないことに気づいた。「こんなメニューでは体がもつまい」と心配して尋ねた。「わかっているのだけど食欲が湧いてこないのよ」という返事であり、本人も苦しいようであった。当時の体重は42kgであった。
「まずは体重を45kgにまで戻す努力をしよう」と提案して行動を開始した。夕食を外食にして酒を嗜みながら時間をかけて多様な食事をつまんでもらうようにした。おかげで43kgをキープできる状態まで回復に漕ぎつけ、筆者も安堵していた。しかし、その矢先にコロナに感染し、体重が38kgにまで激減したのだ。
2カ月間は目向きの姿勢を堅持
体重の記録は22年4月23日から再開している。より正確には、リハビリ通いが始まったために新しい様式で記録をつけ始めたのだ。リハビリ通いが本人にとって楽しいものであったのであろう。さらには、「これで死んでたまるか」、再起するぞという闘志に燃えていたのである。
ところが体操などの項目の記録は6月14日で終わっている。おそらく通うための体力が失われたのだと思う。本人は再起しようとの意識をもっているのであるが、指令塔である頭の部分から「生きよう」という指示がないのか、容態は悪化するばかりである。悦子自身も悔しくて泣く思いをしたであろう。
この時点から買い物を含めて1人で外出することがなくなった。足の衰えが目立ち始めた。日曜日の買い物にはこちらが同行するのでなく悦子がついてくる感じとなった。買い物袋を持つ力も失っている状態であった。車の乗り降りにもかなり時間を要するようになった。6月ごろからはシートベルトを付ける力も失っており、手助けが必要となっていた。
いま振り返れば、22年6月という月は「回復の道が閉ざされた」分水嶺であったのかもしれない。治療によいと言われた策はすべて打ってきた。唐津にある治療院の先生とは10年超える付き合いがあり、徹底した研究に基づいて策を講じてもらっていたが、6月前後には「再生は無理かも」と諦観していたのかもしれない。
治療のため1年近く毎週土曜日に筆者が運転して唐津に通った。懐かしい。悦子の病気が悪化していった経緯を詳しく知る者は筆者しかいない。しかし、己の無神経さには反省の余地があったとも思う。次回は体重の激変について触れる。
(つづく)
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『筋萎縮性側索硬化症』(日本神経学会)関連キーワード
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