2024年11月26日( 火 )

愛する子どもを配偶者に連れ去られた(2)敏也の場合(前)

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精神的に幼い妻に子どもはついていき
面会交流の約束は守られず子どもたちに会えない

 柚木敏也氏(仮名、40代。以下、敏也)は妻K子(40代)と結婚10年目。子どもは小学校低学年の娘と息子のふたり。敏也は工場技術職、K子は専業主婦。いまだに離婚は成立していない。

 夫婦のすれ違いから、妻による子どもの連れ去り、そして、敏也が子どもに会えなくなるまでの経緯を克明に語ってもらった。

モデルコンテストに出場してから妻が変化

 2021年、この年の春は、敏也の仕事が忙しく家事を手伝えないことがあった。妻K子はそのことにストレスを抱えていたらしく、夫婦間で大きな喧嘩があった。長く口をきかないこともあったが、しばらくすると仲直りすることを何度か繰り返した。敏也はこのころ、これまでになくK子の気分が不安定であることを感じていた。

 その年の秋、もともと芸能に興味があったK子はモデルコンテストに出場。入賞したことに本人は大変喜び、その道で活動を目指すことになった。夫の敏也は、家庭や子育てが疎かにならないか心配しつつも、愛する妻がやりたいことだと思って応援することにした。だが、K子はコンテスト入賞以来、イベントや交流会への出席を口実に深夜に帰宅しがちになる。家庭では食事の準備や家事をしなくなり、子どもと一緒にいるときもスマホをいじることが多くなった。

 大晦日、敏也が食事をつくっているとき、K子は唐突に、「結婚してから今まであなたに愛情をもったことはなかった」と言い始める。敏也はショックを受けて寝込むが、K子は子どもを連れて年越しイベントに出かけた。

 年明けの元旦。朝帰りのK子と⾃宅で話す。敏也は今まで妻のことを応援していたが、「愛のない⼈のサポートはできない。愛がないのであれば出ていってほしい」と告げた。K子は同意して離婚のための協議が成⽴した。その時話し合って同意した主な内容は次の通り。

 K子が⾃宅から出て⾏き、親権は父・敏也がもつ。
 K子は⾃宅の合鍵をもち、出⼊りや宿泊の制限などは設けずに今まで通り⼦供たちといつでも接することができる。
 養育費や慰謝料など、⾦銭の請求は⼀切しない。しかし、もし⽣活が困窮するようなことがあれば相談する。

 K子はすぐに離婚届を提出しようと言ったが、敏也は書⾯に残しておいた⽅が良いと考えて法務事務所に離婚協議書の作成を依頼した(だが、後日、K子が協議内容を反故にしたため作成は中断)。

妻が家事と育児を一切放棄

 正月の三箇日を過ぎたころから、K子は精神的に不安定になった。前にも増して家事も育児も放置して⾃室にこもるようになる。⼣⾷はインスタントラーメンや冷凍⾷品、ファストフードが続くようになった。

 冬休みも終わりに近づいた日、敏也が仕事から帰ると小学校低学年の娘が泣きながら冬休みの宿題をしていた。理由を尋ねると、「⼀⼈で宿題やらなきゃ親権は取らないとママに⾔われた」という。K子は子どもたちの学校が始まることにも無関⼼で、体操服や上履き、給⾷⽤のお箸、学校からのお便り、宿題、明⽇の準備など子どもたちへ声掛けもしないので、すべてを敏也が⾏うようになった。

 仕事を終えて午後8時頃帰宅した際、⼦供たちだけを残してK子は外出していた。K子は家を出ることが決まってから、⽔商売の仕事を始めた。しかし子どもたちの⾷事の⽤意もしないままK子は仕事に出ていたため、お腹が減った娘は給⾷のパン用の小袋のジャムをチューチュー吸っていた。それを見て敏也が急いで⾷事を準備する。それ以降、敏也は会社の仕事を定時で切り上げ、毎⽇⾷事の準備をするようになった。K子は午後9時頃帰ってくると約束しても、実際には日付が変わる直前頃、敏也と⼦供たちが就寝後に帰宅するなどしていた。

 ある日、仕事中の敏也に不動産会社から電話があった。K子は敏也を保証⼈にアパートを借りようとしていたが、敏也は電話があることを聞いておらず、いささか困惑しながらも保証⼈になることは了解した。しかし、不動産会社は、K子から話が通じていなかったことを不審に思い、K子はアパートを借りることができなかった。K子はアパートを借りられなかったことで精神状態がさらに不安定になった。敏也は、家計のためにK子に預けていた敏也の通帳を返すように1月の上旬に要求して、1⼈で出ていくのに必要な分だけ引き出して返すように伝えていたが、再度、通帳を返すように強く迫った際、口論になった。通帳を見ると、複数回に分けて1⽉だけで150万円を引き出していたことが分かった。K子は「⼦供を連れて実家に出て⾏く」と⾔った。

 K子の実家は自宅から車で15分程度の場所にある。敏也は、自分の仕事中にK子が勝手に子どもを連れて実家に帰るかもしれないと思い、義⺟に電話をして経緯を説明した。義⺟は「離婚は仕⽅ない。K子には家事育児は無理なので、敏也さんが親権者になることに同意する」と言った。また、敏也が、「妻が⼦供たちを連れて実家にきても家に戻るように伝えてください」とお願いしたことにも義母は同意した。その後、K子は家事を放置した自分の態度に一度は反省を示したものの、敏也が家に帰ると、子どもたちはリビングにいたが相変わらず食事の準備はされておらず、妻は⼀⼈で部屋に閉じこもっていた。

娘が、そして息子が、連れ去られた

イメージ    1月の終わり、敏也が帰宅すると、⾃宅には息⼦だけがいて、K子と娘の姿はなかった。息⼦に事情を聞くと、K子が娘にちょっとした注意をしたところ、娘が反論して⼝論になり、K子は⼦供たちを置いて荷物をまとめて家を出て⾏こうとした。⽬の前で家を出て⾏こうとする⺟親を前にして娘は、⾃分も⼀緒に⾏くと⾔い出し、結局2⼈で実家に出ていった。一方、息⼦は、「今の友達との関係を大切にしたいからここに残った」と⾔った。敏也が義母にLINE でメッセージを送ると、義母からは「K子はそんなにおかしくなってない。落ち着いてください」などと返信がきたものの、家に帰すという約束は守られなかった。

 翌日、急遽仕事を休み、相談ができるところを探して片っ端から電話をかけた。行政の弁護⼠相談で離婚調停の方法を聞き、その足で家庭裁判所に向かい、調停申⽴てと同時に、⼦の引き渡し保全も申し⽴てた。

 その日の夜、昼間に怪我をしてK子に病院に連れて⾏かれていた息⼦が、義両親と一緒に⾃宅に帰ってきた。昨日は家に残ると言っていたが、「やっぱり本当はママと⼀緒がいい」と告げられた。敏也は、昨日の息子は父親に気を遣って本⼼を隠していたのかとも考えたが、そのときの話ぶりのほうがむしろしっかりと⾃分の考えを表明していたことや、「ママと一緒がいい」という息子の言葉には不自然な部分も感じられたため、K子の指⽰である可能性を敏也は考えた。

 次の日、K子からLINEで、協議内容とは真逆の「お前(敏也)が家から出て⾏け」とか、アパートの空部屋情報を送るなどして暗に退去を迫るメッセージが送られてきた。また、間もなく振り込まれる⼦ども⼿当を渡すことを要求してきたため、敏也が、調停や保全の申し⽴てをしていることや、お⾦のやり取りはそれ以降になることを伝えると、K子は激怒した様⼦で、これ以来、子どもとの直接交流が難しくなった。

別居後初めての面会交流

 当初、義⽗は「⼦供たちは敏也のところとK子のところ(義両親の家)を交代交代で」と提案していたが、まったく守られなかった。

 2月上旬、別居後、初めての敏也と子どもたちとの⾯会交流が実現した。義両親と義姉とその子どもらも同席した。義⽗は、「次回は2月中旬」と約束したが、これ以降、敏也は約束の反故による長い裏切りに翻弄されることになる。

 2回目の面会交流日、義⽗から「義⺟が⾃家⽤⾞を使っているので⼦供たちを連れていけない」と⾯会を当⽇キャンセルされた。それ以降義父は、「⼦供たちが会いたがっていない」「実家にきてから⼦供たちは落ち着いている」などという理由で会わせようとしなくなる。また、義父は、すでに決まっていた離婚協議内容についても勝手に反故にする姿勢を見せた。敏也が、このようになった経緯やK子の家庭内での変化について説明しても聞く耳をもたず、挙句には、「男は仕事だけしていればいい」「⾦だけ出していればいい」「男に家事育児は無理」と一方的な物言いで、敏也が家事育児をしながら仕事もしていたことを伝えてもまったく聞き⼊れようとしない。また、義母は⾃⾝が⼊信している宗教セミナーの勧誘を⼦供たちにもLINEで送信しており、そのことを家裁の調停準備資料に記載されたことを逆恨みして義母も話に応じなくなり、陰で敏也の悪口を言いふらすようになった。敏也は自身の親族にも仲介を依頼し、実の母から義両親へ手紙を出してもらうなどするも、義両親は誠実に対応しなかった。

敏也への子どもの引き渡しは認められず

 2月中旬、家庭裁判所において、調停前の仮保全の審判当日。K子は連絡なしに遅刻し、遅刻理由の説明もなかった。また、裁判官の質問に対しては、無関係な自分の想いを⻑々と主張し、何度か裁判官に「質問の回答と違う」と制止された。また、審議中に携帯電話を鳴らし注意されるなどもした。

 しかし、審判の結果、保全に関しては、⼦供たちの健康状態に異常がないとのことで、敏也への引き渡しなどは認められなかった(母性優先、継続性の原則)。敏也は審議終了後、すぐに弁護⼠に事件処理を委任した。

(つづく)

【寺村朋輝】

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