2024年12月23日( 月 )

経済小説『落日』(1)都市高の薄暮れ

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谺 丈二 著

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 九州道から都市高速に分岐した辺りで風景が薄暮に溶け始めた。国際線の誘導灯が冷え切った空気を通して視界に明滅する。

 着陸する大型旅客機の轟音を聞きながら、走行車線を走る黒塗りの大型車は制限速度を超えていたが、それでも次々に赤いテールライトが追い越して行く。

 湾岸通りに入ると、風景は合理性と機能性を絵にしたような無彩色の倉庫の連なりに変わった。それは途切れることなく、巨大な闘鶏のようなかたちのガントリークレーンが立つ岸壁まで続いている。

 井坂太一はシートに身を沈め、窓越しの風景をぼんやり見ていた。H湾は西の端にわずかにその色をとどめた陽を映しながら水平線に向かうほど霞を深くし、入江に浮かぶN島にも小さな灯りが点り始めている。

「社長、今日はどうかなさいましたか?」

 いきなりかけられた声に一瞬、井坂は返事に詰まった。その言葉の意味が、とっさに理解できなかったからだった。

「ん?」

 戸惑いを生返事に変えて、井坂は運転席に視線を移した。そこには自分と同じように、髪に白いものが混じり始めた運転手の頭があった。運転手の名前は福井といった。

「いや、乗車中はたいてい読書をなさっているのに今日はずっと外をご覧になっていたんで」
 前方に視線を置いたまま福井は言った。いつもと違う井坂の様子をルームミラー越しに見ていたらしい。

「ああ、今日は少し疲れ気味でね」

 思わず正直な気持ちが井坂の口をついた。

 確かにここ半年、いろいろな出来事で井坂はひどく疲れていた。
「社長はいつもお忙しそうですから。たまには気分転換に運動でもなさらないと」
 福井は軽く後部座席に顔を向けるような仕草をしながら言った。
「そういえば最近ゴルフもご無沙汰だな。ところで君は何かやっているの?」

 半ば面倒くさそうに井坂は返した。

「はい、陸上競技です」
「陸上?」

 意外な答えに井坂は軽く上体を起こし、あらためて福井の横顔に視線を移した。

「実はこれでもベテランズ400mの年代別日本記録を出したこともあるんです」
「ベテランズ?」
「はい。マスターズとも言いますが、5歳刻みで年代別記録を競います。100歳の現役もいますよ」

 福井は幾分、弾んだ声で言った。

「400mをどのくらいで走るの?」
「55秒くらいです。もう歳ですからね。思うように足が動きませんよ」
「いやいや、たいしたもんだ」

 日本一と聞いて、井坂は軽い驚きを込めて言った。400mは陸上競技のなかでは、ある意味でマラソン並みの過酷な競技だということくらいは井坂も知っていた。自分とそう年齢が変わらない福井が400mを50秒半ばで走り抜くというのは、井坂にとって驚きだった。

「そりゃ凄い」
「恐れ入ります」

 短い言葉で福井が恐縮したところで料金所が近づき、車はスピードを落とした。

『ひょっとしたら車の後ろより、前に座る人生のほうが幸運なのかもしれない』

 福井とのやり取りを反芻しながら、井坂はふとそう思った。30年あまりビジネスの最前線を走り続けた井坂にとって、初めての思いだった。だが、戸惑いは野に放った火のように、みるみる井坂のなかに拡がった。そんな思いを振り払うように、井坂は頬を固くして窓越しの空に目を移した。暗さを増した空に浮かぶ鈍色の雲に陽がわずかな残照を残している。

 井坂は静かに瞼を閉じた。その奥で雲の赤が西日本総合銀行会長室の絨毯に重なり、会長の加藤達雄の顔が浮かんだ。

 考えてみれば加藤との出会いから、人生の軌跡が少しずつ狂い始めたような気がする。苦い思いを吐き出すように、井坂は細く短く息をついた。

(つづく)

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