経済小説『落日』(2)西総銀本店
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谺 丈二 著
料金所を出ると10分ほどで、西日本総合銀行本店に着いた。いかにも銀行然とした居丈高な茶色のビルを見上げながら、車は大通りから二度ほど左折して、幹部行員専用の通用口で停車した。車が止まると井坂は自分でドアを開けた。
道路を挟んだ向かい側に小さな公園があり、すっかり葉を落とした数本のケヤキが街路灯に照らされ、枯れ木のように地面に影を落とす光景が井坂の気持ちをさらに暗くした。
「すみません、社長」
運転席から降りた福井が慌てて駆け寄り、わびの言葉を口にした。
「いいんだ、福井君」
いつもなら運転手がドアを開けてくれるのを待つが、銀行に来るときは自分からドアを開けるのが習慣になっていた。
きっかけは8年前の出来事にあった。たまたま、外出先から帰った井坂はちょうど車に乗り込もうとしていた加藤に出くわした。そのとき、井坂は秘書を制して加藤の乗りこんだ車のドアを閉めた。もちろん、その行為に特別な意味はなかった。しかし、車に乗り込んだ加藤の口から、井坂にとっては思いもよらない言葉がこぼれた。
「私は車のドアを閉めてもらうためにあなたを取締役にしたのではありません」
ウィンドウガラスを下ろして加藤はやんわりと、しかし限りなく冷たい目で言った。
『お前とそんな関係を結ぶ気はないんだ。勘違いしないでくれ』加藤の目はあたかもそう言っているようだった。キャリアを上り詰めた官僚特有の慇懃無礼を絵にかいたような言葉に、井坂は頭から冷や水を浴びせられたような気がした。
続いて言いようのない重い怒りが胃のあたりからこみあげてきた。走り去る加藤の車に軽く一礼しながら、井坂は舗道の敷石に小さく唾を吐いた。
このときの加藤の一言はその後も、喉に刺さった魚の小骨のように記憶の隅にうずくまり、この場所での車の乗り降りのたびに井坂の頭の片隅を往復した。
「お疲れさまです」
不快を振り払うように足早に通用口に向かった井坂を迎えたのは会長秘書役の石村慎二だった。
守衛が手を添えたドアから2人は行内に入り、役員専用のエレベーターに向かった。「どうだい、会長のご様子は?」
エレベーターに乗り込むと井坂は石村の背中に話しかけた。
「別に普段とお変わりなくというところですかね。今日は特別なご報告ですか?」
紺色のスーツに長身を包んだ石村はめったにない時間帯の訪問を訝しく思ったのか、浅黒い端正な顔に軽く笑みを浮かべながら言った。
両手をズボンのポケットに突っ込んだまま井坂は無言の笑顔でそれに応え、階数表示に目をやった。会長室は7階にある。
短い沈黙の後、エレベーターは目的の階に着いた。ネクタイの結び目に手をやりそれを少し硬くすると、石村が手を添えるドアから重い気持ちをゆっくりした足取りに変えて、井坂はエレベーターを後にした。
窓のないほの暗い長い廊下を、左右にかかる何枚かの有名画家の油彩を横目に、2人は無言のまま前後してしばらく歩き、会長室の前に立った。
「井坂社長がお見えになりました」
控えめなノックの後、居ずまいを正しながら分厚いマホガニーのドアを開けながら石村が言った。
「ああ、ご苦労様。5分だけ待ってもらえんかな」
なかから加藤の声がした。
「しばらくお待ちくださいとのことです」
石村はドアを閉め、井坂に向き直ると笑顔で言った。井坂はその笑顔に加藤の声が聞こえたというように無言で軽くうなずいた。
5分後、腕時計を見ながら石村が再びドアをノックした。
「失礼します」
石村と入れ替わり、廊下のそれとは質の違う絨毯の感触を靴の底に感じながら、井坂は軽く一礼した。
「ああ、ご苦労様」
加藤は執務デスクで手元の書類に視線を落したまま、抑揚のない声でいうとやや時間をおいて井坂を一瞥し、ゆっくり立ち上がると応接セットに向かった。
「ま、どうぞ」
加藤が座り終えるのを待って、井坂は黒い革張りの大型のソファーに浅く腰を下ろし、両手を膝に置くと上目遣いであらためて一礼した。
(つづく)
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