2024年12月23日( 月 )

経済小説『落日』(5)回想1

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谺 丈二 著

 短い石村と別れの挨拶後、車に乗り込むと井坂は自宅に向かうよう福井に告げた。
「天下りか・・・」
 井坂は冷めた思いのなかで呟くと10数年前のある出来事を思った。

 西日本総合銀行が相互銀行から地方銀行への転換を図ったとき、大蔵省から提示されたのは営業エリアとしてはまったく価値のないM県を拠点とする小さな相互銀行の救済合併だった。つい数年前、営業メリットがないということでその地域から撤退した西総銀だった。ゴリ押し同然の要求に当時の西総銀幹部は愕然としたが、大蔵の依頼は半ば絶対だった。

 断れば当時進行中だった念願の普銀転換に支障をきたすだけでなく、事あるごとに不利益をこうむることは目に見えていた。逆にここで恩を売れば、いざという時のメリットも小さくない。
そんな事情で、西日本総合銀行は仕方なくその提案を受け入れ、さらに後年、手に入れた新たな拠点を閉鎖するという無駄骨を強いられた。井坂から見た大蔵の手法はまさにやりたい放題だった。そして、加藤はその大蔵からの初の天下り頭取だった。つい10分ほど前の会長室での出来事と積年の思いが井坂の頭のなかで凝縮し、小さな音を立てて弾けた。

 銀行を出て10分ほど走ると車は市街地を抜け、農地と住宅が混在する郊外に出た。

 やがて視界に黒々と横たわる小山が入ってくる。
「社長、以前から気になっていたんですがあれは何ですか?」
 それまで無言で車を運転していた福井が運転席側の窓に軽く顎をしゃくって井坂に問いかけた。
 そこには月の光に照らされた廃墟のような大きな建造物があった。

「あれは立坑櫓だな」
「たてこう、ですか?」
「石炭や坑内で作業をする炭鉱夫や機材を上げ下げするウインチを据えていたんだ。いわば巨大なエレベーター施設みたいなもんかな」
「この辺りに炭鉱があったのですか?」
「ああ、明治時代に海軍が開発した炭鉱で、終戦まで珍しく国営を続けていた。戦後はたしか国鉄が管理していたはずだ。私が中学時代まで採炭が続いていたな」

 福井に応えながら井坂はあらためて窓の外を見た。巨大なコンクリートの建物が過去の栄光をしのぶかのように建っている。井坂にとっては、その後方に黒く横たわるボタ山と合わせて幼いころからの見慣れた風景だった。

「大きな炭鉱だったのですか」
「ピーク時は5、6,000人の人間が働いていたようだね」
「へえ、そんなに。すごいもんだったのですね」

 福井は感心したように言った。
 福井との短い会話を終えて、井坂は月明かりの下に立つ薄黒いシルエットをあらためて視界の真ん中に置いた。

 10数年前、銀行の社宅を払い下げてもらい、数回の増改築を重ねたものの、けして豪華とはいえない自宅まではもうすぐだった。井坂は廃墟のような立坑櫓と自分を重ねた。古びた記憶のなかで炭鉱住宅や幼い友人の顔がぼんやり浮かんでいた。

 井坂は経済的な事情で、同じ歳の人間と2年遅れで地方の国立大学を出て銀行に入った。
 銀行を選んだのは大手ゼネコンに勤めていた長兄の一言だった。

「やっぱり銀行だな。うちのワンマントップでも銀行の幹部の前では借りてきた猫だ。うちのメインにもおれより出来の良くなかった同期が入ったが下手すると将来俺はあいつに頭を下げることになりかねん」

 その一言は井坂に強いインパクトを与えた。幼いころから井坂は兄の弱音を聞いたことがなかった。スポーツも学業も常にトップでその姿はいつも自信に満ちていた。

 井坂にとって長兄は自分とは異質の人間に見えた。負けん気の強い井坂はそんな長兄にあこがれより嫉妬を感じたものだった。そんな兄が銀行を恐れている。井坂にとって銀行を職場に選ぶには十分過ぎる理由だった。

「努力はすべてを解決する。しかし、努力は結果によってしか評価されない」

 そう決意し、勢い込んで職場に臨んだ井坂を待っていたのは、年下の先輩から君付けで呼ばれるという現実だった。普通の人間にとってはそう苦にならないことだろうが、自意識が高い井坂にとってはある種の屈辱だった。

 背負った時間の負債をより速く清算するには努力の量を充てるしかない。井坂はまさに馬車馬のように働いた。もちろん、遅れてきたことだけがその理由ではなかった。

 どんな職場でも印象の薄い人間が上に行くことはない。見てくれが地味な自分を同僚や上司に印象付けるために井坂は仕事だけでなく、麻雀やゴルフといった遊びにも上達のための努力を惜しまなかった。

「人生の成功は仕事の成功なしでは手にできない。より大きな仕事の成功のためにはまず、それなりの地位を」

 管理職になると井坂は口癖のように自分の考え方を部下に訴え続けた。組織のなかでは自分の仕事の結果だけでなく、部下の仕事も自分の評価につながる。井坂は部下の尻を叩きながら、自らも休日返上で働き続け、銀行人生の最後のあたりでようやく取締役の地位を手に入れたのだった。しかし、それは普通の昇進ではなく、ある事情によるものだった。

(つづく)

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