経済小説『落日』(3)会長応接室
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谺 丈二 著
加藤達雄。元大蔵省関税局長。10年ほど前、大手航空会社を経て西日本総合銀行に天下り、会長を経て頭取になり2期4年を過ごして再び会長の職に戻っていた。
もちろん、代表権と人事権はしっかり握ったままだ。銀行の会長職だけでなく、F市商工会議所の会頭など少なくない公職にも就いていた。白くなった髪をきちんと整え、仕立てのいいグレーのスーツを痩身に隙なく着こなしている。
「一体どうなっているのでしょう?」
ソファーに腰を落としながら、加藤はつぶやくように言った。金縁の眼鏡の奥で細い眼が光っている。
「あなたに全権を与えて丸7年、副社長時代を入れると8年です。さっきからここ数年の経営数値を見ていましたが問題は小さくありませんな。はっきり言って、何の改善もない」
井坂は無言のまま軽く頭を下げて小さく足もとに視線を落とした。
「当行としてはあなたに全面的に協力してきました。7年はけして短くないし、援助自体も小さくはありません」
ソファーに深く座り、井坂を上目遣いに見ながら低い声で加藤は続けた。
「先日、リオンの安田会長が訪ねて来ましてね。朱雀屋に資本参加したいというのですよ。暗に朱雀さんからの依頼を臭わせていましたが、当行もあなたも甘く見られたものですね」
責めるというよりむしろ諭すように穏やかな口調だったが、どす黒い怒りを必死で抑えている加藤の胸の内が井坂には手に取るようにわかった。井坂には返す言葉がなかった。軽く唇をかみ、井坂は頬を固くした。
加藤が口にしたリオンは世界の小売業売上トップテン入りを標榜し、ここ10数年来、国内外を問わず、同業を中心に統合、合併を繰り返し、そう遠くない将来に国内最大手になるだろうとささやかれる企業だった。
そのリオンと朱雀屋は、かつて同業として切磋琢磨で競い合った時期もあったが、今では両社の企業格差は歴然としている。
リオンの海外戦略とM&Aを統括するのはもっぱら会長の安田の仕事だった。地元代議士からの紹介ということで、仕方なく安田との面談に応じたものの、面談の席で安田から提携をもちかけられた加藤は乗っ取りという言葉をにおわせながら、安田のプライドを逆なでした。安田は苦い笑いのなかで加藤の部屋を後にしたのだった。
「お分かりでしょうが、銀行は信用が第一です。信用を言いかえれば能力です。あなたの会社も同じです。問題があればそれを解決するのがトップの責任です」
加藤の膝の辺りに視線を泳がせながら井坂はただその言葉を聞いた。
「営業数値だけじゃありません。組合の問題も株主総会も同じですよ。あなたの会社がぎくしゃくするのは別に関知しませんが、それを当行にまで飛び火させるのはいかがなものでしょう。業績は低迷、株価は落とす。挙句の果てに監督官庁の不審を買う。おまけにここに至ってもこっちから求めるまで何の報告もない。債務保証を含めれば債権は800億、持株を加えればさらに200億。当行にとって軽くない額です」
加藤は侮蔑の言葉をひとしきり井坂に告げるとゆっくり立ち上り、デスクに戻るとそれきり沈黙した。
重苦しい沈黙のなかで、ソファーに浅く掛けたまま井坂は加藤の次のアクションを待った。しかし、加藤は無言のまま、デスクの上の未決と書かれた箱のなかから取り出す書類に淡々と目を通すことを繰り返した。
普通ならすぐ秘書室から茶かコーヒーが運ばれるはずだが、時間が時間だけに誰も部屋に入ってこなかった。砕けたガラスのなかに裸足で踏み込んだような思いのなかで、ひどくゆっくり時間が流れた。
「ああ、まだいましたか」
加藤が再び口を開いたのは井坂が部屋に入って1時間をとうに過ぎた頃だった。
「おっしゃりたいことがあればどうぞ。私はもう申すことはありませんから」
加藤は座ったまま目だけを動かして井坂を見ると再び視線を机上に戻し、穏やかな口調で言った。
井坂はゆっくりソファーから立ち上がると丁寧に頭を下げてドアに向かった。
(つづく)
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