経済小説『落日』(4)キャリア官僚下り
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谺 丈二 著
「結構長いお話でしたね?」
会長室を出ると廊下の端に石村が立っていた。
「ああ、君はずっとここにいたのか? そりゃご苦労だったな」
井坂は石村の問いには応えず、立ち止まることなくそう言うと足早にエレベーターに向かった。石村が慌てて後に続く。
エレベーターホールに着くと石村が手早くエレベーターのボタンを押した。ドアはすぐに開いた。
乗り込んだ井坂をほっとした気持ちとこめかみを締め付けるような屈辱が相半ばして包んだ。少しでも早くこの建物から出たい井坂の気持ちを無視するかのようにエレベーターはゆっくり階下へ向かった。
井坂の様子からその事情を察したのかエレベーターのなかで石村は無言だった。
舗道に出たところで井坂は立ち止まり、ゆっくり頭を上げて今出てきたばかりの本店ビルを見上げた。
まだ午後7時を過ぎたばかりだというのにほとんどの窓の明かりが消えている。
「石村君、最近はいつもこんなもんか?」
早朝から深夜までが当たり前だった自分の銀行時代を思い出して井坂は言った。
「ええ、会長のご方針です。本音ではないのでしょうが、業績は汗でなく、工夫と計画ということで。もっとも、大部分の行員は仕事を家に持ち帰っていますよ。私も会長のお顔の広さと行動力のおかげでどっぷり汗の世界です」
40歳少し手前で西総銀最年少の支店長から会長秘書役に転じたばかりの石村は、井坂を気遣ってか半ば自嘲気味の笑顔で皮肉をまぶした軽口をたたいた。
「なるほど」
井坂の頬が少し緩んだ。
「もっとも、頭取は会長とはいささかお考えが違うようですが」
「そうか、久賀さんも大変だな」井坂は久賀喜一のエネルギッシュな大きな顔を思い浮かべた。加藤は同じ大蔵の後輩を頭取含みで迎えていたが、バブルの崩壊と金融不祥事にともなう風当たりを考慮してか、急きょ生え抜き副頭取の久賀をワンポイントの頭取に据えていた。
天下り官僚がいったん手に入れた指定席を短期で手放すのは珍しいことだが、バブル崩壊をきっかけに白日の下にさらされた考えられない大蔵官僚の不祥事がそうせざるをえないような状況をつくり出していたのかもしれなかった。
「彼らの物差しは我々のそれとは少し違うからな」
井坂はひとり言のように言った。
「仕方ありませんね。私たちとは生い立ちが違いますからね」
石村は井坂の言葉を苦い笑いで肯定した。
「生い立ちか。うまいこと言うな」
井坂は石村を見て笑みを浮かべた。
「8時、5時の公務員といっても、彼らの場合、5時は5時でも朝の5時、課長どころか参事官になっても時には夜討ち朝駆け。参事官をもじって睡眠3時間と自分たちを揶揄する世界ですからね」
石村がささやくように軽口を重ねた。
石村の言う通り、キャリア官僚は国会開会中や年度末など時によってはまさに夜討ち朝駆けのハードな仕事をする。とくに、大蔵のキャリアは若いうちから政治家との駆け引き、交渉、調査と資料づくりを担い、加えて他省庁から上がってくる要求予算の査定、あるいは決算報告に訪れる上場企業の財務役員からの報告書を大蔵大臣の名代ということで鉛筆一本のサインで処理する。そこで出来上がる思考回路は当然、普通の社会通念とは遠い。
立法府に知恵を授け、示達という名の命令書を監督する業界に出し、加えてさまざまな規制と許可という道具を使って民間企業をコントロールし、天下りのルートを敷く。いくら政治の主導者が変わろうと、彼らの鉄のヒエラルキーに支えられ、そのかたちは微動だにしない。そんな彼らの真の報酬は現役時代ではなく退官後にある。その権力感覚は民間に天下ってもいささかも変わらない。井坂から見た加藤はまさにその典型だった。
(つづく)
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