2024年11月23日( 土 )

経済小説『落日』(17)もう1つの抵抗勢力

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谺 丈二 著

 銀行からはまず、犬飼が同行した。支配者としての本格的な実務が始まるのはしばらく先のことである。新たな組織構築のために銀行から複数の人間を呼ぶのはそれからでよかった。

「ワンマン率いる受け身の企業風土を一日も早く積極、自主にたたき直さなきゃならんな」

 社長室に隣接して新たに用意された顧問室で飴色の革張りの大きなソファーで、井坂と犬飼は額を突き合わせた。

「資本主義の世界は利益がその評価のすべてです。そう考えると今の朱雀さんにはいまや何の価値もありません。一気呵成にことを運びます」

 犬飼が目を据えた。

「まあ、あわてなさんな。いくらワンマン率いる無気力集団とはいっても、力ずくさをそのまま表に出すと抵抗勢力が出てくる。いまは多勢に無勢だ。わざわざ敵をつくることはないよ。時間はたっぷりあるんだ。まず、幹部の何人かを取り込むことだな」

 意気込む犬飼をなだめるように井坂が薄い笑いを浮かべた。

「幹部連中の何人かは風が変わったことは薄々感じているだろうから、まずそこらあたりに撒餌をしてみたらどうだ」
「そうですね・・。わかりました。じっくり行きます」

 猜疑に裏打ちされた用心深さを井坂は忘れていなかった。力ずくでの支配という色を一気に出すと社の内外に余計な摩擦を生みかねない。

 いくら自分が優位とはいえ、朱雀屋内での創業者への信望と畏怖は小さくない。そんな社員はいざという時の銀行の力を本当の意味で理解はしていないはずだ。加えて、これ見よがしの銀行主導は彼らにとって屈辱でもある。屈辱は人間から素直さと忠誠心を奪う。そう考えるといくら朱雀が銀行の直接支配を受容れたとはいっても、いきなり強権を表に出すわけにはいかなかった。しかし、そうは言っても実働の前になるべく早く自分優位の状況もつくっておかなければならない。それにはできるだけ多くの幹部を味方につける必要がある。

 さらに朱雀屋では労働組合が結構な力をもっていた。労使協調路線とはいえ、銀行の御用組合と違ってそこにもそれなりの根回しが要る。

「それでは組合を覗きに行きましょうか」

 牧下の案内で井坂が朱雀屋労組を訪ねたのは顧問の肩書で役員フロアに腰を落ち着けた翌日だった。朱雀屋本部には傘下企業9社の単組を束ねる労働組合連合会があった。朱雀屋労組はその中心で各組合の事務所は5階建て本部ビル最上階にある。

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 得意げに井坂を先導して、組合事務所の前に立つと牧下はノックもなしにドアを押した。10数人の組合専従者がそれぞれに机に向かっていた。

 部屋の壁には組合活動に関する何枚かのキャンペーンポスターが整然と貼ってあり、入り口近くに結構な大きさの応接セットが置かれ、その横には部屋の雰囲気には少しそぐわない直径20cmを超える立派なオリーブの鉢植えが座っている。

 連合会会長と朱雀屋労組の委員長を兼務している原田隆は、部屋の一番奥まったところで両袖の木製大型デスクに座り、湯呑を片手にパソコンに向かっていた。

「こんにちは」

 ノック代わりの牧下の甲高い声と同時に部屋にいた全員の視線が2人に向かった。

 原田と朱雀屋労組書記長の大川明が挨拶の声とともにゆっくり椅子から立ち上がり、2人に目をやった。

「今度お世話になります井坂です」

 牧下の前に出て、井坂は少し頬を緩めて軽く頭を下げた。

「それにしても整理の行き届いたなかなか立派な事務所ですな」

 原田に促されるまま、ソファーに腰を下ろした後、辺りを見回しながら井坂はさらに笑顔を深くして言った。

「大きな声では言えませんが、組合は当社のどの部署より躾がよくできていますから・・」

 100kg近い巨躯を紺のスーツに包んだ原田が牧下に軽く視線を投げながら、本気とも冗談ともつかない言い方をした。でっぷりした色白の顔の細い目が油断なく笑っている。

 入社年次では牧下とほとんど変わらない原田だったが、店舗の次長時代に労働組合設立に加わり、それ以来ずっと労組の幹部役員を続けている。

「それにしても牧下専務においでいただけるとは珍しい。かれこれ半年ぶりですかね」

 浅黒い顔をした書記長の大川がデスク横のスタンドハンガーに掛けたグレーの上着を手にし、応接セットに向かいながら牧下を見て厚めの唇で皮肉っぽく微笑んだ。

「そんなことはないよ。たまに顔を出すんだが、書記長がいないだけだよ」

 牧下が半分真剣な顔で口をとがらす。

 しばらくして専従の女性職員が緑茶をもってきた。低いセンターテーブルの前に両膝をつき、茶卓に乗せた湯のみを丁寧に置く。

「すばらしい応対ですな」

 井坂は軽く会釈をした後、湯呑に手を伸ばしながら感心したように言った。

「ずっと以前から組合では当たり前のことです」

 原田がこともなげに言った。

「今後、組合からもいろいろとご提案をいただこうと思っております。牧下専務のように頭は固くありませんので、どうぞなんなりと聞かせてください」

 井坂が笑顔で言った。

 当たり障りのないところで小一時間ほど業界や社会情勢に関する話をして、井坂は専従者全員が起立して見送る組合本部を後にした。

「専従幹部は話が分かりそうな連中のようだな」

 部屋を出ると井坂はひとり言のように言った。

「顧問、うちの組合を甘く見てはいけませんよ。なにしろ以前、朱雀社長を地労委に提訴したこともありますからねえ」

 エレベーターに乗り込むと牧下は何を勘違いしたか自慢にならないことを半ば得意げに口にした。

「それは社長のせいじゃないだろう。そこまで彼らをいかせたのは君たち幹部が無責任だっただけのことだ」

 あきれ顔で井坂が笑った。

「そりゃまあ‥」

 図星をさされて牧下は口をすぼめた。

「いずれにしても彼らは特権階級、いわゆる労働貴族というやつだ。経営に何の心配りをすることなく、ただ難癖をつけてその存在を誇示するのがもっぱらの仕事だからな。いわゆる万年野党みたいなもんだ」

 井坂は嫌みな笑いを目じりに湛えて牧下を見た。組合に対しての舌禍で何度も痛い思いをした牧下は、口ごもりながら井坂の言葉を肯定した。

「行儀は悪くないが結構骨がありそうだな。組合の連中は」

 エレベーターを出ると自室に向かう廊下で、井坂はその本音を口にした。直接利害関係がないだけに井坂にとって労働組合は気になる存在だった。

「何かあったら私が矢面に立ちますからご安心ください」

 井坂のつぶやきを耳ざとく聞きとめて牧下が真剣な顔で言った。

 牧下の言葉に井坂はその顔を見ることもなく無言で笑いながら頷いた。

(つづく)

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